四方を海に囲まれた日本では、歴史上「海軍」が大きな役割を果たしてきた。
戦国時代の水軍から江戸・幕末の近代海軍の誕生を経て、明治の帝国海軍、そして、昭和の開戦、戦後の海上自衛隊発足へと連なる洋上の戦士たちの系譜を知るために、その組織や装備、戦い方の変遷の航跡を振り返り、さらには未来の海戦の予想までを含めて解説しよう。
戦国~明治新政府:戦国時代後期から大名が編成した水軍が誕生

江戸時代初期に、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が命じて造らせたという、徳川家の軍艦「安あ 宅たけ丸まる」の想像図 出典/ Wikimedia Commons
日本の海軍は、諸説あるが、戦国時代の「水軍」に始まるともいわれる。村上氏などで知られる「海賊」を一部の戦国大名が戦力として活用。豊臣政権では海賊行為は禁止され「水軍」を統制下に置いた。
江戸時代に入ると大船建造が禁止されるなど軍事的な水軍は衰退するが、江戸末期になると外国船の来航が増加。幕府が海防強化のために西洋式軍艦を輸入し、幕末には幕府海軍がつくられた。
明治新政府はこれを継承して近代海軍の整備を本格化。大日本帝国海軍の基礎を築いた。
1872年:大日本帝国海軍が誕生。日清戦争で初の連合艦隊を編成
明治新政府は当初、独立した海軍を持っていなかったが、1872年に陸軍省・海軍省を設置し、「大日本帝国海軍」が誕生した。
94年に始まった日清戦争では、開戦6日後に主力部隊の「常備艦隊」と二線級部隊の「警備艦隊(西海艦隊)」を統合した「連合艦隊」が編成され、以降、日露戦争を含む戦時、大規模演習時に臨時編成されていたが、1923年以降は常設の組織となった。
日清戦争では初めての近代的海戦である黄海海戦を経験し、勝利を飾る。日本が列強入りを果たす原動力となった。
1905年:日露戦争中の日本海海戦でロシアが誇るバルチック艦隊に勝利

1905年5月27日の早朝、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊 出典/ Wikimedia Commons
1904年に始まった日露戦争における05年の日本海海戦では、遠征してきたロシアのバルチック艦隊を旧日本海軍が撃破。
この際、東郷平八郎司令長官の指揮、参謀の秋山真之の作戦案の下、五島列島からウラジオストクまでの600海里を7段に分け、4日3晩ぶっ通しで、戦艦の砲戦や水雷戦隊の夜戦などの追撃戦を仕掛ける7段構えの戦法で勝利をつかんだ。
大国ロシアを海戦で破り、日露戦争に事実上の勝利を収めたことから、以降旧日本海軍は日本海海戦をモデルとし、艦隊が直接対峙して砲戦や魚雷戦を繰り広げる戦略戦術に重きを置くようになる。
1922、30年:軍縮条約で主力艦の建艦が中止。「特型駆逐艦」が建造される

特型駆逐艦の『吹雪』。ワシントン海軍軍縮条約の制限を受けない補助艦艇の強化のため、建造された新型駆逐艦 出典/ Wikimedia Commons
1922年、ワシントン海軍軍縮条約が締結された。第1次世界大戦が終わった後も各国が軍拡を続けたため、建艦競争を抑制するため戦勝5カ国(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア)が結んだもので、主力艦の建艦が中止となった。
さらに30年のロンドン海軍軍縮条約では、主力艦以外の補助艦の建艦にも制限がかけられた。
ワシントン海軍軍縮条約をきっかけに、当時は条約の制限外であった補助艦艇を強化すべく生まれた日本の新型駆逐艦に、「特型駆逐艦」(『吹雪』型駆逐艦)がある。「量の制限を質で超える」ことを目標に、小型で航海性能の優れた船体に重武装を搭載した特型駆逐艦の登場は、他国に衝撃を与え、次のロンドン海軍軍縮条約で駆逐艦が細かく規制されるきっかけにもなった。
1933年:旧日本海軍のスーパーウエポン「酸素魚雷」が開発される

第2次世界大戦中、ワシントンD.C.のアメリカ海軍本部前に展示されていた、日本の九三式魚雷(酸素魚雷) 出典/ Wikimedia Commons
正式名称「九三式魚雷」。旧日本海軍が開発した巡洋艦、駆逐艦用魚雷だ。
従来型の魚雷よりも高速で長射程、かつ航跡をほぼ引かないため敵が見つけづらいという、高性能な魚雷だった。最大速度約50ノット、最大射程約40キロメートル。
旧日本海軍では「酸素魚雷」を水雷戦闘力の要とし、多数の魚雷を一斉に発射して敵艦を撃破する戦術を磨くことになる。
1934、36年:2つの条約から脱退。「陽炎型駆逐艦」が建造されていく

陽炎型駆逐艦の『舞風』。同型に『雪風』も。軍縮条約の制限に縛られず、復元性能や船体強度にも留意して造られた新鋭駆逐艦だった 出典/ Wikimedia Commons
先に挙げた2つの海軍軍縮条約から1934年と36年に脱退した日本は、来たるべき戦争に備えて多数の艦艇を建造する。
駆逐艦も条約の制約から脱した新型として「陽炎型駆逐艦」を建造。同型19隻のなかに『雪風』もあった。
『吹雪』型が対艦戦に特化していたのに対し、『陽炎』型は高射角の機関銃を搭載するなど、対空戦も考慮した造りに進化した。
1941年:旧日本海軍の航空機による真珠湾攻撃でアメリカの太平洋艦隊に大打撃

1941年12月8日未明、日本の艦上攻撃機が奇襲攻撃を行い、炎と煙に包まれるアメリカ海軍の真珠湾基地。航空攻撃の有効性が注目された 出典/ Wikimedia Commons
1941年12月8日未明、旧日本海軍の空母6隻を中心とする機動部隊が、太平洋戦争開戦直後、ハワイ・オアフ島のアメリカ海軍真珠湾基地を奇襲攻撃。戦艦4隻撃沈などの戦果を挙げた。
当時、航空機によって戦艦を撃沈することは難しいと考えられていたが、真珠湾攻撃の成功と、その直後のマレー沖海戦で、イギリスの戦艦が旧日本海軍の航空攻撃のみで撃沈されたことを受け、航空機による攻撃の有効性が世界に知れ渡った。
これに大きな衝撃を受けたアメリカは、「大艦巨砲主義」から「航空主兵」への転換を一気に進めることとなる。
1942年:艦隊同士の戦い、スラバヤ沖海戦で、旧日本海軍は砲撃、魚雷戦に勝利する
1942年2月27日、太平洋戦争初の艦隊同士の海戦「スラバヤ沖海戦」が始まった。
ジャワ島攻略に向かう旧日本軍輸送船団を護衛する日本の巡洋艦・駆逐艦による艦隊と、連合国軍の艦隊が激突。7時間にも及ぶ砲撃戦、魚雷戦の結果、連合国軍の巡洋艦2隻、駆逐艦5隻を撃沈。
日本側の被害は駆逐艦1隻の損傷のみという、旧日本海軍が一方的な勝利を収め、日本の水雷戦隊の戦闘能力の高さを世に知らしめることとなった。土日返上で猛訓練に励んでいた錬成のたまものでもあった。
1942年:ミッドウェー海戦で、旧日本海軍は大敗北を喫し、戦局が転換
太平洋戦争の転換点とも呼ばれたミッドウェー海戦。旧日本海軍の空母4隻を中心とする機動部隊と、アメリカ海軍の空母3隻を中心とする機動部隊が激突し、空母同士の大規模な航空戦が繰り広げられた。
この戦いで日本は空母4隻を全て失った。一方でアメリカ軍の空母損失は1隻にとどまり、優秀なパイロットを多数失った旧日本海軍は、開戦以来の優勢から一転、苦しい戦いを強いられることになった。
1944年:海軍空母機動部隊同士の戦い、マリアナ沖海戦で壊滅的な敗北

1944年6月20日午後遅く、マリアナ諸島沖でアメリカ海軍の航空機から攻撃を受ける日本の艦隊
1944年6月15日、アメリカ軍が日本の重要拠点の1つ、マリアナ諸島のサイパン島に上陸を開始。これを迎え撃つため、旧日本海軍も空母9隻を主力とする機動部隊を差し向けたが、アメリカ海軍は空母15隻で対抗。
19日から20日にかけて起きたマリアナ沖海戦で、旧日本海軍は大敗を喫した。その結果、旧日本海軍が誇る機動部隊は航空戦力のほとんどを失い、またマリアナ諸島の島々も相次いで失陥してしまった。
1944年:史上最大の海戦、レイテ沖海戦で戦艦『武蔵』が沈没

1944年10月25日、レイテ沖海戦で、行動や意図を知られないように煙幕を張るアメリカ海軍の駆逐艦と護衛駆逐艦 出典/ Wikimedia Commons
マリアナ沖海戦で敗退した旧日本軍は、フィリピン奪回を目指して進撃してくるアメリカ軍を陸・海軍の総力を挙げて迎え撃った。
海では「レイテ沖海戦」が行われ、旧日本海軍は大規模な艦隊を投入したが、そのかいもなく大敗し、空母4隻、戦艦3隻を含む多数の艦艇を失った。この中には、世界最大級の戦艦『大和』の姉妹艦である『武蔵』も含まれていた。
一方でアメリカ空母の活動を封じるための非常策として、航空機による体当たり自爆攻撃を行う旧日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初出撃。以降多数の「特攻機」を送り出す始まりとなった。
1945年:坊ノ岬沖海戦で海上特攻隊として向かった戦艦『大和』が撃沈

1945年4月7日、東シナ海でアメリカ海軍の空母機動部隊の攻撃を受ける日本の戦艦『大和』 出典/ Wikimedia Commons
1945年4月1日、連合国軍が沖縄本島に上陸を開始。もはや大規模に艦隊を動かすことすらできなくなっていた旧日本海軍は、4月6日、残存艦艇のうち戦艦『大和』を中心に、軽巡洋艦『矢矧』、駆逐艦『雪風』を含む8隻の合計10隻による艦隊を「海上特攻隊」として沖縄へ向けて出発させた。
翌7日、艦隊はアメリカ海軍機動部隊の航空機による2度の大空襲を受ける。集中攻撃された『大和』は同日14時23分に沈没。生き残って日本に帰れたのは、『雪風』を含む駆逐艦4隻だけだった。この戦いにより、旧日本海軍の組織的な戦闘は終わった。
1945年終戦後:敗戦時に残存した艦艇の多くは、「復員輸送船」、「賠償艦」に

賠償艦となった『雪風』は、1947年7月に中華民国に引き渡され、『丹陽』と改名し、活躍を続けた 出典/ Wikimedia Commons
太平洋戦争終結時、アジアや太平洋の島々には多数の日本人が残留していた。軍人はもちろん、民間人も多かった。
これらの人々を日本に引き揚げさせるため、旧海軍の残存艦艇はもちろん、アメリカ軍から与えられた輸送船も動員して、大規模な「復員輸送」が行われた。
旧海軍の艦艇は武装を外し、仮設の居住区や厨房を設けて人員輸送を行えるように改造。『雪風』などの駆逐艦は、比較的近距離の東南アジア、中華民国、朝鮮からの復員輸送に従事したという。
復員輸送に活躍した旧海軍艦艇は、その役目を終えた後、一部は「賠償艦」として戦勝国に引き渡された。多くの場合、引き渡し後にスクラップにされているが、旧ソ連や中華民国(後の台湾)に引き渡された艦艇の中には、その後も名前を変えて使われ続けたものもある。
ちなみに駆逐艦『雪風』は、中華民国に賠償艦として引き渡され、『丹陽』と改名し、同国海軍の主力艦として活躍したとされる。
1954年〜現在:復員任務、機雷掃海任務を経て、海上自衛隊が誕生。今も活躍を続ける

アデン湾において、アメリカ海軍と海賊対処に関する共同訓練を行う、海自の海賊対処行動水上部隊
復員輸送は、海軍省から第2復員省、復員庁へと引き継がれ、1947年ごろまで行われた。
日本の海上警察任務、そして日本近海に日本とアメリカ双方が敷設した機雷の掃海作業は、復員庁から運輸省を経て、48年に発足した海上保安庁に引き継がれた。
52年、海上保安庁の中に「海上警備隊」を設置。これが前身となり、54年に海上自衛隊が発足する。以降、海上保安庁から引き継いだ掃海作業をはじめ、日本の海の国防は海自が受け持つこととなる。
アメリカ軍の援助も得つつ着々と力を付けた海自は、80年、初めてリムパック(環太平洋合同演習)に参加し、アメリカ軍以外の世界各国の海軍と肩を並べて演習に参加できるまでになった。

1991年、ペルシャ湾に派遣された海自の掃海部隊は、近くを石油のパイプラインが通り、海流の激しい危険な場所の掃海を担当した
平成に入ると、1991年の湾岸戦争の戦後処理で、自衛隊初の海外派遣となるペルシャ湾掃海部隊派遣が行われ、翌92年に成立した「国際平和協力法」のもと、海自は世界中に活躍の場を広げていくようになった。
2009年からは、貿易大国・日本にとって重要な航路に当たるソマリア沖・アデン湾を航行する民間商船を襲う海賊事件の発生が急増したことを受け、自衛隊による商船の防護活動(海賊対処行動)を行っている。
11年にはジブチ共和国に自衛隊の拠点が設置され、活動は現在も続いている。
未来:無人の水上ドローンや長射程のミサイルなど非接触型の打撃戦が主流に
太平洋戦争までは、海戦といえば水上艦隊同士が艦砲射撃や雷撃戦という形でぶつかり合うようなスタイル、いわば「日本海海戦」のようなイメージがあったが、この先、そのような海戦は行われるのだろうか?
戦略論や作戦術などに詳しい元海上自衛官の石原敬浩氏に聞いた。
「今後は起きにくいでしょうね。現代のロシアのウクライナ侵攻を見ても明らかなように、無人の水上ドローンや長射程の対艦ミサイルのような兵器による『非接触型の打撃戦』が主流になってきています。
一方で、ステルス技術が極限まで進化した場合や、狭い海域に民間船、漁船が多数混在する状況下での戦いなど、最終的に人間の目視による識別や攻撃可否の判断が必要な局面も考えられますので、局地的な水上艦同士の接近戦が再発する可能性はゼロではありません」
技術は進化しても、最後に国を、人の命を守るのは「人の意志」なのかもしれない。海上自衛隊で活動する艦艇乗りたちは、戦いの様相がいかに変わっても、日本を守るべく、今日も海のどこかで腕を磨いているのだ。
(MAMOR2025年9月号)
<文/臼井総理 写真提供/防衛省>
※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです