日進月歩の科学技術。ライト兄弟がグライダーを1902年に試作して以来、進化を遂げています。
自衛隊の航空機も防衛能力を向上させるため、研究・開発がなされている。その一翼を担うのが、開発途上の試作機を操縦するテストパイロットだ。
元航空自衛官の小説家・数多久遠(あまたくおん)が、一人のテストパイロットを主役に、ストーリーを描く。
【数多久遠(あまたくおん)】
小説家、軍事評論家。元航空自衛官。自衛官時代から小説を書き始め、退官後の2014年にデビュー。著書に『航空自衛隊 副官 怜於奈』シリーズ(ハルキ文庫)など
※この作品はフィクションです
突然の内示。テストパイロットコースへ
「豊崎2位、入ります!」
部隊で勤務していれば、教育中のようなしゃちほこばった儀礼は必要とされない。それでも、飛行隊の2尉などまだまだ新人だ。そろそろ昇任とはいえ、隊長が呼んでいるとなれば心臓は100メートルダッシュした時と変わらなかった。豊崎遍2等空尉は、声を張り上げ、隊長室に足を踏み入れた。
「閉めてくれ」
第203飛行隊長粟原2佐が低い声で言った。ただでさえ不安と緊張で硬くなっていた豊崎の右手から汗が吹き出す。普段は開け放たれている扉を閉め、粟原の前に立った。隊長が直々に叱らなければならないほどのヘマはやらかしていないはずだった。となれば、思い当たることは一つしかない。
「察していると思うが、異動内示だ」
「はい」と答えながら生唾を飲む。
「岐阜のTPCだ。希望外かもしれないが、問題ないな?」
「TPCですか?」
確認の問いかけは、上ずったものになってしまった。テストパイロットコース、つまり飛行開発実験団の試験飛行操縦士課程への入校ということだ。
「そうだ。適性と組織としての要求を踏まえての異動内示だ」
「ですが、異動はタック部隊を希望してました」
豊崎は、毎年提出する人事上の希望で、タック部隊、つまり実戦部隊を希望していた。
「それは承知している。だが、防大での航空要員も希望通りだったし、幹候校での特技指定も希望通りだっただろ。常に希望が叶うなんてことは、シャバでもあり得ない話だぞ。ましてやここは自衛隊だ」
「そうですが……」
反論しかけた言葉は、先を続けることができなかった。職種や異動の希望が常に叶うなどあり得ないことなのは十分に知っていた。それでも、試験飛行操縦士課程への入校はショックだった。
豊崎は、小松のアグレッサーか、もしくは他の実戦部隊を希望していた。憧れのF‐15に乗ることができたのだから、これからも戦技を磨いていきたいと考えていたからだ。まだ2尉とはいえ、隊内でも操縦技量は高いと認められていた。経験を積めば、アグレッサーでやれる自信も持っていた。
しかし、試験飛行操縦士課程への入校は、今後のキャリアがテストパイロットとなることを意味していた。テストパイロットも、パイロットとしての高い技量を要求される重要な仕事であることは知っている。しかし、実戦部隊ではない。
粟原の言葉は、豊崎に『お前は実戦部隊に必要ない』と言われているような気がして、やりきれなかった。防大で、航空宇宙工学を専攻したことが良くなかったのかもしれなかった。飛行隊の訓練でも、その知識を下地とした理屈っぽいことを口にしたことが、この内示に結びついてしまったのかもしれなかった。
「不満はあるかもしれないが、航空自衛隊はタック部隊だけでなく、優秀なテストパイロットも必要としている。特段の事情がなければ内示どおり人事発令される」
自衛隊で言うところの特段の事情とは、親の介護が必要など、人事上考慮されなければ退職せざるを得ないほどの事情を指す。タック部隊で勤務したいという希望は、とてもそれに該当するとは言えなかった。
「分かり……ました」
豊崎は、俯いたまま力なく答えた。
TPCを終え、テストパイロットへ。そしてーー。

スーツを着込んだ豊崎は、市ケ谷駅を出ると外堀を渡り防衛省に向かった。防衛大学校の同期には、既にこの市ヶ谷にある空幕で勤務している者もいる。それでも、知った顔に出会う事はなく、A棟のエレベーターに乗り、目的の場所まで辿り着いた。
空幕人教部補任課、正式な名称は航空幕僚監部人事教育部補任課だ。空自隊員の異動を最終的に仕切っている中枢だった。部屋に入り、近くにいた1尉に声をかける。
「入ります。飛実団飛実群飛行隊の豊崎1尉です。冬木3佐の所に来るように言われているのですが」
豊崎の現在の所属は飛行開発実験団飛行実験群飛行隊だ。テストパイロットコースを修了後、テストパイロットとして勤務していたが、再び異動の時期を迎えていた。ちょうど、夏の定期異動時期でもあった。冬木3佐の机を教えてもらい、少し髪の薄くなった自衛官に声をかける。
「飛実団の豊崎1尉です。必要書類などを受け取りに来ました」
「ご苦労さん。適当な椅子にかけて」
空いていた手近な椅子に座り、冬木から必要書類を受け取って説明を受けた。明日の成田発の便で、アメリカの大学院に行くためだった。修士だけでなく、博士課程まで進み、航空工学を学ばせてもらえる予定になっている。大学関係だけでなく、住居を手配してくれている不動産業者の資料などについても説明を聞いた。これで終わりだろうと思ったところで、冬木が立ち上がる。
「さて、では行くか。荷物も持ってきて」
用件は終わったはずだったが、冬木がどこかに案内してくれるらしい。
「課長、豊崎1尉を連れてきました」
冬木が案内してくれた先は、補任課長席だった。
「おう、来たか」
「隊長……じゃなく、粟原……1佐。こちらにいたんですか」
豊崎が昇任していたように、203飛行隊で世話になった粟原も昇任して1佐になっていた。
「残念ながら、飛ぶだけが仕事じゃないからな」
そう言って、粟原は周囲にいた課員に、20時までには戻ると告げて立ち上がった。廊下で待つように言われ、言われた通りに待っていると、粟原もスーツに着替えてやってきた。そのまま、ゲートを出て近くの居酒屋ののれんを潜る。
「博士課程の件だが、あれは俺が筋道を付けたんだぞ」
ジョッキを手に乾杯し、粟原はにやりと笑った。彼には、豊崎が博士課程での留学を希望することを見透かされていたような気がした。それが、少し癪だった。
飛行開発実験団に配属された、本当の理由
粟原に告げられたテストパイロットコースへの異動は不満だった。しかし、いざ課程を卒業し、現配置の飛行実験群飛行隊でテストパイロットとして勤務すると、その仕事は面白かった。性に合っていた。そのことは、認めざるを得なかった。
「隊長が言った通り、適性があったんだと思います」
豊崎は、あえて“隊長”と呼んだ。そして、現在の粟原の配置を知って考えたことを口にした。
「補任課長に補職されているのは、そうした目があったからなんですね」
粟原には、豊崎が思った以上に、人を見る目があったのだろう。
「お前も、そう思うだろ……と、言いたいところだが少し違う」
粟原は、一気にジョッキを呷って言った。
「誰か、他に居たんですか?」
203飛行隊にいた先輩の誰かが、豊崎の適性を見抜いたのだろうか?
「お前、タロンで飛行教育を受けただろ。あの時の教官、キャプテン何たらが、お前はテストパイロットに向いているんじゃないかと指導記録に書いてたんだ。新しい機体に慣れるのが早いし、理論を理解して、それによって操縦することができるって書いてたな」
空自のパイロットは、国内で飛行教育を受けるだけでなく、一部は海外で教育を受けている。豊崎もその1人で、アメリカでT‐38タロンを使用し、米空軍の教官から教育を受けた。
「そうだったんですか」
「もちろん、203でもその評価の通りだなと思ったからこそだがな。実際にやってみて、どうだ?」
豊崎は、テストパイロットでない粟原に説明するため、少しだけ考えて答えた。
「必要とされる飛行技術は、タックと少し違いますが、どちらが上と言えるようなものじゃないと思います。ただタックでは要求されない資質が必要です。パイロット同士なら感覚として持っている共通理解があるため、飛行時の感覚を説明することも簡単です。
ですが、その共通理解のない人と話す能力、しかも、技術を言葉としてコミュニケーションを取る能力が必要です。そういう意味では、パイロット適性に加えて、そうした素養をプラスして持っていることが、テストパイロットとして必要な資質なんだと思っています」
豊崎が、TPCに行ったことで辿り着いた答えだった。
「今の能力では、足りないか?」
粟原の問いは、豊崎が米留での博士課程履修を希望したことに対してだろう。確かに豊崎は不足を感じていた。それは、技術幹部と話す時、時折感じるもどかしさだった。
豊崎は、言いたい事を巧く言葉にすることができないと思っていた。そして、その背景が、自分自身の技術に関する本質的な理解が浅いことにあるような気がしてならなかった。
「今もやれています。ただ、もう一段高いレベルで出来るようになりたいと思いました」
それは、テストパイロットとしての道を究めたいという言葉だった。豊崎の答えを聞いて、粟原はにやりと笑っていた。
「戻った時に、何をやることになるのか分かっているか?」
豊崎は、ビールの入ったジョッキを置いた。飲みの席だが、飲みながら答えるべきこととは思えなかったからだ。
「何となく、予想は出来ています。戻る頃には次期戦闘機の開発が本格化しますから。それをやれってことですよね」
「やるだけじゃない。次期戦闘機の開発は、日英伊3カ国での共同開発だ。しかも、日本主導でやることを目指している。テストパイロットにドクターを取らせるのはそのためだ。昔のテストパイロットには、チャック・イェーガーのような大学さえ出てない者もいた。だが、操縦技術と度胸だけじゃ、イギリスやイタリアとは渡り合えない。期待してるぞ」
「はい」
豊崎は、この道に進ませてくれた粟原に感謝した。
【解説】
●「防大での航空要員も希望通り」:防衛大学校では、2年進級時に卒業後に任官する陸・海・空の要員が決定される
●「幹候校での特技指定」:幹部候補生学校では卒業後の職種について希望を出す
●「小松のアグレッサー」:小松基地に所在し、戦闘機同士の戦闘に関する技術研究や他部隊への指導を任務とする部隊
●「空幕」:航空自衛隊の防衛・教育訓練・人事などの計画立案、部隊の管理・運営などを行う航空幕僚監部の略
●「T‐38タロン」:アメリカ軍の戦闘機パイロット養成に使われる2人乗りの練習機
●「チャック・イェーガー」:天才的な操縦技術を持つアメリカ空軍の准将で、戦後、テストパイロットとして世界で初めて超音速飛行を行った人物
(MAMOR2024年9月号)
<写真/黒澤英介>
※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです