2022年に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。舞台となった平安~鎌倉時代以前から、わが国では諸国間で多くの戦があり、そこには、トップに立つ“将”に仕える“幕僚”がいたと考えられます。小説やドラマ、映画にも、多くの幕僚・参謀が登場して、それぞれにファンがいます。そこで、「幕僚」について学んできた幹部自衛官500人にアンケート調査をし、「好きな幕僚」を選んでいただきました。
1位:秋山真之(1868~1918年)
日本海海戦でバルチック艦隊撃破に導いた、勝利の立役者
明治~大正時代の旧日本海軍の軍人。出身は現在の愛媛県。1890年に海軍兵学校を卒業し、アメリカ駐在武官などを経て1900年に常備艦隊参謀となる。日露戦争(1904~05年)では第1艦隊参謀として旗艦『三笠』に乗艦。東郷平八郎連合艦隊司令長官のもとで作戦を立案。05年の日本海海戦ではバルチック艦隊撃破に貢献した。旧海軍随一の戦略家として知られ、実兄の旧陸軍大将・秋山好古は「日本騎兵の父」として有名。
「軍人として、1人の人間として自らを絶えず修練し、成長させたその生き方に感銘を受けた」(陸自40代 2佐)
「知識や先見性に優れるだけでなく、人間の心理をよく理解して行動に移らせるから」(海自50代 2佐)
「生き方に共感したので選びました」(空自40代 1佐)
2位:黒田官兵衛(1546~1604年)
天下を狙えると評される頭脳を持つ、豊臣秀吉の懐刀
戦国~江戸時代初期の武将。官兵衛は通称で本名は孝高。如水の法名でも知られる。はじめ播磨(現在の兵庫県あたり)の小寺氏に仕えるが、織田信長の台頭によりその配下であった羽柴秀吉に従う。
攻城戦の巧みさに定評があり、補給路を絶つ兵糧攻めや城を孤立させる水攻めなどを献策し、秀吉の覇業を補佐した。築城術の名手でもあり、姫路城や大坂城など重要な城郭の建設にも関与。秀吉の死後は徳川家康に仕え、二代将軍・秀忠からも高い評価を得ている。
「頭脳と武力の両方を巧みに用いて、主人である秀吉を天下人にしてしまう手腕はすばらしい」(陸自30代 3佐)
「兵糧攻めといった、現代戦にも通じるような作戦を立てることに長じていたから挙げさせていただきました」(海自50代 2佐)
3位:諸葛孔明(181~234年)
“軍師”の代名詞といえばこの人物? 三国時代の天才参謀
中国・後漢末期~三国時代の武将にして蜀の宰相。劉備玄徳の参謀としてよく知られている。
伝説的な戦術の数々は枚挙にいとまがないが、人材を欲する劉備が自ら再三足を運んでスカウトした「三顧の礼」や、勢力を3分割して捉え段階的に全土統一を企図する「天下三分の計」などの故事が有名。用兵だけではなく外交戦略も駆使し、劉備の台頭を陰に陽に補佐した。
その能力は敵対勢力にも高く評価され、策略があると勘ぐった敵が自ら退却したという故事もある。
「ファンでいろいろと三国志の書物を読んでいるが、孔明ほどの希代の大軍師はいない」(陸自50代 1尉)
「その気になれば王位さん奪も可能な立場であったが、最後まで臣下としての忠節を尽くしたから」(海自40代 3佐)
4位:児玉源太郎(1852~1906年)
日露戦争での旅順攻囲戦を終わらせた、旧陸軍の総参謀長
幕末~明治時代の旧日本陸軍の軍人・政治家。出身は現在の山口県。長州藩の支藩である徳山藩士として、17歳のころに戊辰戦争(1868~69年)に参戦。69年の箱館戦争後に旧陸軍へと入隊し、以降も西南戦争(77年)などに従軍した。
台湾総督などを経て1903年に陸軍参謀本部次長に就任。翌年の日露戦争(1904~05年)では満州軍総参謀長を務め、総司令官・大山巌を補佐した。激戦で知られる旅順攻囲戦では児玉が指揮を執り攻略に成功したとされる。
「日露戦争における大山巌との二人三脚は、自らの地位、役割を弁えた素晴らしい仕事ぶりと思える」(陸自40代 1佐)
「真に国家に必要な仕事は何かを考え、自身個人の待遇の悪化という条件でも腐らずに職務に当たったから」(海自30代 3佐)
5位:八原博通(1902~81年)
誰よりもアメリカ軍を熟知していた、沖縄戦の作戦参謀
昭和の旧日本陸軍の軍人。鳥取県出身。1923年に陸軍士官学校を卒業、その後、最年少で陸軍大学校に入学し5位の席次で卒業した。
33年から約2年アメリカに留学し、アメリカ軍の能力や軍制について見識を深める。帰国後は陸軍大学校教官や参謀を歴任し、太平洋戦争開戦直後には第15軍参謀に就任。44年には沖縄防衛を担う第32軍の高級参謀として作戦を立案、戦略持久によってアメリカ軍の侵攻を食い止めた。その計画的な持久戦術はアメリカ軍も高く評価していた。
「的確な戦術眼は現在の幕僚にも必要」(陸自20代 1尉)
「日本人の特徴でもある、耐性の低さ、せっかち、散る文化を極力抑えて、アメリカ軍の嫌がる陣地戦、持久戦などを採用し、粘り強く任務を完遂しようとしたことから」(空自40代 3佐)
6位:ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ Helmuth Karl Bernhard von Moltke(1800~91年)
日本の幕僚制にも影響を与えた、近代ドイツ陸軍の父
プロイセンおよびドイツ帝国の陸軍軍人。1811年にデンマーク王立陸軍幼年学校に入学、後プロイセン軍に移籍して26年にプロイセン陸軍大学校を卒業。地図作製に関する著作を評価され、参謀本部陸地測量部でキャリアを積んだ。
オスマン帝国軍顧問などを経てプロイセンに帰国し、58年に参謀総長に就任。軍制改革を推進し近代ドイツ陸軍の父と呼ばれ、日本にも大きな影響を与えた。
「現代の軍事組織において必ずといっていいほど採用されている参謀本部の制度を確立した人物だから」(陸自30代 1尉)
「常に思考を続け、柔軟に判断・決断できることこそ大切と説いた、現代参謀の始祖的存在だから」(海自40代 3佐)
7位:栗林忠道(1891~1945年)
硫黄島守備を任された砕心の最高指揮官
大正~昭和の旧日本陸軍の軍人。長野県出身。1941年に第23軍参謀長に就任。44年に硫黄島守備の任に就き、持久戦とゲリラ戦術で敵軍の侵攻を食い止めた。一兵卒にも心配りをし、信望を集めたという。
「作戦環境をよく分析し、任務達成に必要な戦術を考案、指揮したため」(海自30代 2佐)
「卓越した実績と人格だから」(陸自50代 1佐)
8位:堀栄三(1913~95年)
的確かつ厳密な情報分析の体現者
大正~昭和の旧日本陸軍の軍人・陸上自衛官。奈良県出身。1943年に大本営参謀に着任。航空戦力の優位性や鉄資源の重要性などに着目し、アメリカ軍動向の正確な予測から「マッカーサー参謀」と呼ばれた。
「情報を軽視していた旧陸軍において、誰よりも情報の重要性を訴えていたため」(陸自30代 1尉)
「強い責任感と実務能力の高さ」(陸自30代 3佐)
9位:石原莞爾(1889~1949年)
世界最終戦争論を説いた旧陸軍の参謀
明治~昭和の旧日本陸軍の軍人。山形県出身。1918年に陸軍大学校を次席で卒業。31年に関東軍作戦主任参謀として満州事変を主導した。最終戦争を経て恒久平和へ至るという、独特の思想で知られる。
「カリスマ性がある」(陸自30代 1尉)
「抜きん出た合理主義と慣習にとらわれない考え方は現代の幕僚にも必要な資質」(空自30代 1尉)
10位:土方歳三(1835~69年)
新選組を率いた幕末の“鬼の副長”
幕末京都の治安維持部隊・新選組の副長。多摩(現在の東京都日野市あたり)の農民から幕臣となり、参謀格として新選組の組織作りに大きく貢献した。戊辰戦争では陸軍奉行並として旧幕府軍の部隊を率いた。
「寄せ集めの集団を組織化して、新選組としてまとめあげた手腕は見事」(陸自40代 1佐)
「『鬼』に徹した生き様(陸自40代 1佐)
11位以降の歴史上の幕僚ランキング
11位:竹中半兵衛
1544(天文13)~79(天正7)年。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
「明せきな頭脳から繰り出される策で、緒戦を勝ち抜ける様はワクワクする」(海自40代 3佐)
12位:山本五十六
1884(明治17)~1943(昭和18)年。旧日本海軍の軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官
「統率方針が70年以上たった今でも心に響く」(陸自30代 3尉)
13位:井上成美
1889(明治22)~1975(昭和50)年。旧日本海軍の軍人。最終階級は海軍大将
「冷静、優れた洞察力、表に出さない人間愛、優れた人格」(空自50代 2佐)
13位:秋山好古
1859(安政6)~1930(昭和5)年。旧日本陸軍の軍人、教育者。最終階級は陸軍大将
「質実剛健な人物で、語られる逸話も多いため」(陸自30代 1尉)
15位:孫子
紀元前535年ごろ~没年不詳。中国古代の春秋時代の武将、軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされている
「『戦わずして勝つ』の具現がこの先の時代に必要なことであるため」(空自40代 1佐)
15位:辻政信
1902(明治35)~61(昭和36)年。旧日本陸軍の軍人、政治家。軍人としての最終階級は陸軍大佐
「『作戦の神様』といわれるほどの能力を有しており幕僚として見習うべきことの多い人物だから」(陸自30代 1尉)
17位:源田実
1904(明治37)~89(平成元)年。旧日本海軍の軍人、航空自衛官、政治家。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務めた
「世の流れに左右されない。信念を持っている」(海自50代 1佐)
17位:今村均
1886(明治19)~1968(昭和43)年。旧日本陸軍の軍人。陸軍大学校27期首席。最終階級は陸軍大将
「誠実、謙虚であり、『常に部下隊員とともに』を実現した人物であるから。戦中だけでなく、戦後もその姿勢を貫いていたから」(空自30代 3佐)
19位:山口多聞
1892(明治25)~1942(昭和17)年。旧日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将
「冷静で言うべきことを言える人物」(海自40代 1佐)
19位:白洲次郎
1902(明治35)~85(昭和60)年。日本の実業家、貿易庁長官。連合国軍占領下の日本で吉田茂首相(当時)の側近として活躍
「敗戦国として占領されはしたが、日本の立場を明確に主張したため」(空自50代 2佐)
19位:本多正信
1538(天文7)~1616(元和2)年。戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。2代将軍・徳川秀忠の側近
「徳川家康からの信頼感から「友」と呼ばれていたほど、その心情が通じ合っていたため」(陸自40代 准尉)
22位:勝海舟
1823(文政6)~99(明治32)年。日本の武士、幕臣、政治家。幕末から明治時代初期に活躍し『幕末の三舟』と呼ばれる
「幕臣でありながら、先見性、大局的な視点を持ち、わが国の開国、明治維新およびその後の近代化、大日本帝国海軍の創設に貢献したから」(海自30代 2佐)
22位:佐々淳行
1930(昭和5)~2018(平成30)年。日本の警察官、防衛官僚。危機管理評論家
「警察官僚として信念に基づいて各種危機に対応した豊富な経験とそれを後世へ伝えようとする姿勢」(空自40代 2佐)
22位:西郷隆盛
1828(文政10)~77(明治10)年。幕末から明治前期に活躍した日本の武士、政治家、陸軍軍人
「明治維新の中核的人物。同郷の英雄だから」(海自50代 2佐)
22位:豊臣秀長
1540(天文9)~91(天正19)年。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
「高い能力を持ちながら兄の政権を支えた公正無私の人柄」(海自50代 3佐)
22位:山本勘助
1493(明応2)~1561(永禄4)年。戦国時代の武将
「身体的弱点を乗り越え、自身の得意とする分野で成果を上げ、信頼を勝ち取った生き様を見習いたい」(空自40代 1尉)
22位:聖徳太子
574~622年。飛鳥時代の皇族、政治家。遣隋使の派遣や冠位十二階、十七条憲法を定めた
「当時、世界的にも類を見ない民主的な政治を行った」(陸自50代 1佐)
22位:真田昌幸
1547(天文16)~1611(慶長16)年。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名
「真田氏の生き残りのため策謀の限りを尽くした智将だから」(陸自40代 3佐)
22位:真田幸村
1567(永禄10)~1615(慶長20)年。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男
「固定観念に執着せず、想像力が豊かである」(陸自40代 2佐)
22位:永田鉄山
1884(明治17)~1935(昭和10)年。旧日本陸軍の軍人。参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任
「『もし永田が生きていれば太平洋戦争は起きていなかった』と評価されるほどの人物だから」(陸自40代 3佐)
22位:樋口季一郎
1888(明治21)~1970(昭和45)年。旧日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将
「人心掌握力、徳の判断基準が優れている」(陸自20代 1尉)
22位:片岡小十郎景綱
1557(弘治3)~1615(元和元)年。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将
「名参謀でありながら、ときには師のようにときには父のように公私から伊達政宗を支えたから」(陸自40代 3尉)
22位:明智光秀
1516(永正13)~82(天正10)年。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
「政治がうまい、戦争が強い、民衆を大切にした名君」(陸自40代 准尉)
自衛隊別・幕僚ランキング TOP5
陸上自衛隊TOP5
1位:秋山真之
2位:諸葛孔明
3位:黒田官兵衛
4位:児玉源太郎
5位:八原博通
海上自衛隊TOP5
1位:秋山真之
2位:黒田官兵衛
3位:ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
4位:竹中半兵衛
5位:源田実
航空自衛隊TOP5
1位:諸葛孔明
2位:井上成美
3位:秋山真之
4位:黒田官兵衛
5位:八原博通
<文/帯刀コロク イラスト/斉藤ヨーコ>
(MAMOR2022年3月号)