レーガン政権の発足とロンヤス関係
冷戦終結への立役者となった、第40代アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン
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一番の立役者は、やはり1981年に就任したロナルド・レーガンアメリカ大統領といえるでしょう。レーガンはソ連(当時)を「悪の帝国」と非難し、SDI構想(注1)や600隻海軍構想(注2)により軍事的優位を確立する「力による平和」と呼ばれる対決路線でソ連に対抗したのでした。
(注1)SDIはStrategic Defense Initiativeの略で、1983年にレーガン大統領が提唱したミサイル防衛構想。ソ連のミサイルがアメリカに到達する前に迎撃、破壊するため、宇宙に防衛網を広げるというものだったが、莫大な費用がかかるうえ、技術的にも行き詰まり、さらには冷戦終結もあって、93年に放棄された。しかしその技術の一部は現在のミサイル防衛にも生かされている。
(注2)1980年代のレーガン政権下で推進された、アメリカ海軍の大規模増強計画。70年代後半から海軍力を増強したソ連に対抗するため、空母を含む計600隻の艦艇を保有し、海上での優位を維持・確保することを目指したもの。
また、日本との関連では、中曽根康弘首相(当時)との特別な関係の構築も注目点といえます。日米関係は、前任の鈴木善幸首相が共同声明中で使用された「同盟関係」という用語に、軍事的な協力強化を意味すると捉えられるのを避けるため、「軍事的な意味はない」と発言するなどして、最悪の状態といわれていましたが、ロンヤス関係により、冷戦終結に向け共同歩調をとることができるようになったのでした。
ゴルバチョフの登場とマルタへの道程
ソビエト連邦最後の最高指導者(共産党書記長)、ミハイル・ゴルバチョフ
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一方、冷戦終結に向けたソ連側の立役者は、85年3月に就任したミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長といえます。彼は、ペレストロイカ(注3)と呼ばれる諸改革、グラスノスチ(注4)という情報公開を推進し、ソ連国内の立て直しに努めつつ、西側との関係改善に積極的に取り組みました。
(注3)1980年代後半に旧ソ連のゴルバチョフ政権が進めた、ロシア語で「立て直し」を意味する社会・経済・政治の根本的な改革。硬直した社会主義体制を見直し、大胆な転換を図ったが、経済混乱と民族紛争を招き、91年のソ連崩壊の要因となった。
(注4)ペレストロイカの一環としてゴルバチョフ政権が進めた、ロシア語で「情報公開」を意味する政策。それまで隠蔽されてきた情報を公開し、言論や報道の自由を認め、国民の「知る権利」が回復したが、真実が明らかになったことで、社会主義体制への批判が高まり、ソ連崩壊の一因となった。
86年10月、アイスランドの首都レイキャビクでレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳会談が行われますが、これは冷戦終結の先鞭(せんべん)をつけた歴史的な会談といわれています。そして89年12月、マルタ島沖のソ連客船「マクシム・ゴーリキー」船上における米ソ首脳会談に際し、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ大統領の間で冷戦終結が正式に宣言されることとなったのです。
冷戦終結前後の国際情勢の劇的変化
この冷戦終結前後の国際情勢の変化は、まさに劇的なものでした。マルタ会談に先立つ同年11月、「ベルリンの壁」(注5)が崩壊し、東西ドイツは翌90年の10月に統一を果たします。
その前後には東欧諸国の政変が続き、バルト3国も独立します。そして91年8月にはソ連でクーデターが生起し、最終的には鎮圧されたものの、ゴルバチョフはこれにより権力基盤を喪失、同年末にはついにソ連が崩壊することとなったのです。
(注5)社会主義の東ドイツから、資本主義の西ドイツへの亡命者の増加を抑えるため、1961年に東ドイツが東西ベルリンの境界線に築いた約155キロメートルのコンクリート壁。89年に撤去されるまでに、約200人が脱出を試みて、東ドイツ国境警備隊に射殺された。
その後、ボリス・エリツィンが初代のロシア連邦大統領に就任、独立国家共同体(CIS)を組織し、旧ソ連圏の威信回復に努めますが、功を奏することはありませんでした。
一方、冷戦終結は国際社会に「平和の配当」への期待を抱かせましたが、それは90年8月のイラクのクウェート侵攻により、一気に冷や水を浴びせられることとなります。
【元防衛大学校 防衛学教育学群 准教授 相澤輝昭】
海上自衛官として掃海艦『はちじょう』の艦長などを務め、退職後は、外務省アジア大洋州局地域政策課専門員、笹川平和財団海洋政策研究所特任研究員を歴任。2020年より防衛大学校で准教授を勤め、26年3月に定年退職。
(MAMOR2026年6月号)
●本稿は著者の個人の見解です
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