•  自衛隊には国を守るために、小銃からミサイルまで、さまざまな“飛び道具”がある。さらにその射撃訓練に必要なのが、標的。

     標的は、なにも自衛隊特有のものではない。古来から洋の東西を問わず、戦いや狩猟が行われ、その腕を上げる必要がある場合にはさまざまな標的が存在していた。

     過去から現在に至るまで、どのような標的があったのか、歴史ライターの帯刀コロク氏に話を伺った。標的の歴史や種類を見ていこう。

    武士は武芸の訓練として矢で犬を射た

    画像: 馬上から的を射る流鏑馬。武芸として長年行われ、現在でも神事や行事として執り行われている。射手は武士が狩りをするための衣装を身に着けている 写真/photoAC

    馬上から的を射る流鏑馬。武芸として長年行われ、現在でも神事や行事として執り行われている。射手は武士が狩りをするための衣装を身に着けている 写真/photoAC

     武道、武術に詳しい帯刀コロク氏によると、銃が発明される以前に遠距離にいる敵や動物を狙い撃つのに絶大な威力を発揮した弓矢に関しては、武士の間で各種武技が行われ、それにともなってさまざまな標的が使われた。

     馬上から矢を射るきわめて実践的な射撃訓練としては、関東武士を中心に「騎射三物」が行われた。

     これは、約200メートルの直線距離で馬を疾走させながら、馬場から数メートル離れた地点の地面に刺した約55センチメートル四方のヒノキ板の的を3本射る「流鏑馬」、同じ馬上からの射撃でも距離約18メートルにある中央に黒い円を描いた丸い的や馬場の端から約24センチメートル、地上から約36センチメートルの高さに立てた約12センチメートル四方の角板を狙う「笠懸」、約70メートル四方の馬場に放たれた約150匹の犬を1組12騎、3組の武士が撃つ「犬追物」の3種の訓練の総称である。

    馬上から矢を射るためにサムライたちが行った武技

    画像: 馬上から遠くの的を狙う笠懸。戦場で敵兵を狙う実戦的な武芸の訓練として行われていた。飛んでいく際に音が鳴る矢「鏑矢」を使用していた 出典/『男衾三郎絵巻』(13世紀)

    馬上から遠くの的を狙う笠懸。戦場で敵兵を狙う実戦的な武芸の訓練として行われていた。飛んでいく際に音が鳴る矢「鏑矢」を使用していた 出典/『男衾三郎絵巻』(13世紀)

    「この『騎射三物』は鎌倉時代には非常にポピュラーな戦闘訓練として実施されていましたが、戦闘スタイルが一騎打ちから集団戦が主流になるにつれ廃れていきました」

     一方、弓矢の遠距離射撃としては、今でも成人式ごろに京都の三十三間堂で行われる「通し矢」がある。その起源は保元の乱(1156年)のころにまでさかのぼり、安土桃山時代には豊臣秀次が禁令を出すほどまでに過熱。やがて江戸時代初期から中期にかけて、24時間で約120メートルの距離を射通した矢の数を競う「全堂大矢数」が流行した。

    「各藩では代表選手の育成に力を入れ、武技というよりもスポーツのような様相を呈していたそうです。歴代最高本数として、1686年に紀伊の和佐大八郎が1万542本中8133本を射通したという記録が残っています」

     弓矢の破壊力、貫通力に関しては、甲冑を貫く「固物射抜」がある。

    「歴史上では源為朝と源義家が、よろい3領を1本の矢で貫いたとされていますが、1941年に弓道家で正法流の創始者・吉田能安が、通常の矢じりでかぶとを射抜いています。このときのかぶとは台の上に前後4カ所を釘で止めただけの不安定な状態だったので、吉田能安の弓はまさに達人の域に達していたといっても過言ではないでしょう」

     さまざまな標的を用いて技術の向上に努めてきた弓矢だが、現代の弓道では同心円に3本の輪が描かれた「霞的」と、白地に中心に黒丸を描いた「星的」が使われている。

    手裏剣、火縄銃、大砲と武器の進化で標的も変化

    画像: 放たれた犬を馬上から狙う犬追物。特殊な矢じりを使用し、必要以上に犬を傷つけないように配慮がされていた。鎌倉時代以降武士社会に広く流行し、戦術の変化によって廃れていった 出典/『千代田之御表』(1897年)

    放たれた犬を馬上から狙う犬追物。特殊な矢じりを使用し、必要以上に犬を傷つけないように配慮がされていた。鎌倉時代以降武士社会に広く流行し、戦術の変化によって廃れていった 出典/『千代田之御表』(1897年)

     弓矢以外の伝統的な投てき武器としては手裏剣があるが、実際には星形のものよりも極太の針のような形をした「棒手裏剣」が一般的だった。

     甲賀流忍術の継承者で旧陸軍戸山学校・旧陸軍士官学校・旧陸軍大学・旧海軍大学などで教官を務めた藤田西湖(1899−1966)の著書『図解手裏剣術』による解説では、急所に当てる訓練のため標的の位置を調整する必要性に触れ、座した敵を想定した低い位置に標的を設置する「居打ち」を挙げている。

     稽古では畳を立てかけて標的としていたようだ。そのほかにも火縄銃では、狙い方や射撃方法などを図示した戦国時代の絵巻『稲富流鉄炮秘伝書』と『稲富流砲術奥義秘伝図巻』には、人影が描かれたついたてのほか、シカ・イノシシ・キジ・ツルなどの動物、なぎなたを持った武者が標的として描かれている。

     近代になってからは、距離や破壊力に優れた大砲や、航空機からの爆撃が登場する。大砲については1905年の日本海海戦で、大日本帝国海軍連合艦隊のバルチック艦隊に対する射撃が高い命中率を誇った。その訓練では縦1メートル、横1.5メートルの木綿、古帆布、ブリキ板などでできた標的をいかだに乗せて射撃していたそうだ。

    目視で爆弾を投下していた時代に作られていた「艦爆標的」

    画像: 海面から突き出た「艦爆標的」。周囲にはさらに小さな標的もある 写真提供/宇佐市教育委員会

    海面から突き出た「艦爆標的」。周囲にはさらに小さな標的もある 写真提供/宇佐市教育委員会

     現代の航空機が投下する爆弾は、滑空しながら目標に向けて自動で向かっていくが、目視で照準を合わせて爆弾を投下していた時代には「艦爆標的」が作られた。

     これは沖合約1・2キロメートルの場所に海面から突き出るように設置された直径約10メートルの円形の土台で、爆撃機が急降下爆撃の訓練で使用した標的。大分県宇佐市に現存している。

    「ほかにも無人島を敵艦に見立てて標的としたり、昭和に入ってからは退役した艦艇を標的として使用する『標的艦』も実用化されました。なかでも有名なのがド級戦艦『摂津』で、当時開発されて間もない無人操縦装置が搭載され、1937年に遠隔操縦が可能な爆撃標的艦に改造されました」

    「高度4000メートルからの10キロ演習用爆弾の投下に耐えられるように艦橋・甲板・煙突などの防御を強化していたといわれています」

     このように、時代とともに武器が進化していくにつれて、標的も変化してきたのだ。

    画像: 現在でも弓道で使用される的には、霞的(右)と星的の2種類がある。諸説あるが、模様の円の大きさは人間の心臓や頭部、胴体の大きさに合わせたとされる

    現在でも弓道で使用される的には、霞的(右)と星的の2種類がある。諸説あるが、模様の円の大きさは人間の心臓や頭部、胴体の大きさに合わせたとされる

    【帯刀コロク氏】
    歴史ライター。刀剣や剣術の解説を得意とし、「三條すずしろ」のペンネームで小説も執筆している。居合道(無外流)五段、杖道(神道夢想流)四段の資格を持つ

    (MAMOR 2024年5月号)

    <文/古里学 写真提供/防衛省、宇佐市教育委員会 写真/photoAC>

    自衛隊射撃訓練の標的にロック・オン!

    ※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです

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