長年、忍者ブームが続いています。
放映中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、服部半蔵とその一党が活躍し、また、忍者で町おこしを試みる地方自治体は後を絶ちません。
また、日本を訪れる外国人観光客に人気なのが「忍者体験」だそうです。さらに、忍者の歴史や文化を研究する国立大学まであります。研究者によると、「忍び」には、現代に通じる深い意味がこめられているとか。
そこで、マモルでは真面目に忍者について学ぼうと思います。今回は、忍者の歴史や任務について。
そもそも忍者とは、いつごろ誕生し、どのような存在だったのか?どんな任務を持ち、そのためにいかなる能力を有していたのか、などの基本を、三重大学人文学部教授で国際忍者研究センター副センター長の山田雄司教授に教えていただきました。
忍者はいつごろ生まれた? その任務内容とは?
「忍者」はいつごろからいたのか?山田教授によると、始まりは南北朝時代(鎌倉時代と室町時代の間ごろ)の『太平記』に足利軍が忍者を使って石清水八幡宮に火をつけ、敵方を混乱に陥れた記録があるという。
その後、戦国時代になると情報戦における忍者の重要性が高まり、戦国大名から重用されるようになったという。こうして確立された忍者の任務は主に3つあったと山田教授は語る。
「第1に情報収集。地理情報はもちろん、城など拠点の構造、敵の武器や兵装を調べます。第2に得た情報の伝達。早く、正確に、そして敵に気取られないよう味方に伝えなければなりません。そのため忍者は暗号、のろしなどを活用しました。最後は、かく乱。城に火をつけたり、偽情報を流して混乱させたりしていました」と山田教授。
忍者はどれほどの戦闘能力を持っていた?
アニメなどに登場する忍者は、潜入が発覚して周囲を敵に囲まれても剣をふるい、体術でかわして勝つなど、まるで無敵の存在として描かれることが多い。ところが実際はそこまで個々の戦闘力が高くなかったと山田教授は推測する。
「身体能力に優れた忍者はゲリラ戦には強くとも、正面切って戦う局面では戦闘のプロである武士に敵わなかったと考えられます」
忍者と武士の戦いの例として、1578(天正6)年の「天正伊賀の乱」がある。織田軍が忍者の根拠地である伊賀(現在の三重県)を攻めたのだ。
奇襲や夜襲を繰り返し、敵陣に潜入して偽情報を流すなど得意のゲリラ戦で織田軍を追い返した伊賀衆だが、数で圧倒された2度目の対決では敗れてしまう。「忍者は情報を活用し敵をかく乱する『戦わずして勝つ』のが得意です」と山田教授は話す。
忍者の情報収集力はどれくらい高い?
忍者はどれくらいの情報収集力を持っていたのだろう。山田教授によると、敵地に潜入し直接敵情を見聞きして探る任務はもちろん、商人や僧侶など、各地を従業していても怪しまれない職種に変装し、人々との会話のなかから情報を引き出し、敵の懐に入り込んで情報を得ていたのだという。
「忍者の情報収集は、戦いの直前だけでなく、平時の何もないときから常に行われていました。『戦わずして勝つ』ための極意は、事が起きるまえに予想し発見すること。そのためにも、普段からの情報収集は欠かせないと忍者たちは考えていたのです」
「特にコミュニケーション力は、江戸時代の平和な世になってからも強化されました。『人の心に忍び込む』ことを目的に、さまざまな方法を会得したようです。ほめて相手を気持ちよくさせる、会話から感情の動きを見るなどの方法です」
忍者は下の写真のように商人、虚無僧、芸人など見知らぬ人が町にいても違和感のない職業の変装をし、情報収集をしていたとされる。
商人
虚無増
芸人
【山田雄司氏】
三重大学人文学部教授。国際忍者研究センター副センター長。専門は日本古代・中世信仰史で、忍者・忍術研究で日本をリードする存在。著書に『戦国 忍びの作法』(G.B刊)、編集書に『忍者学大全』(東京大学出版会)など
三重大学国際忍者研究センターとは?
三重大学が2017年に設立した国際的な忍者研究の拠点。伊賀地域を中心に、忍者に関する史料の研究や実験検証の情報発信などをしている。
(MAMOR2023年10月号)
<文/臼井総理 画像/伊賀流忍者博物館提供写真を許諾のうえ加工して使用>