国連が紛争地域の平和維持を図る手段として行ってきた活動が「国連平和維持活動(United Nations Peacekeeping Operations 略称PKO)」。国連平和維持活動や人道的な国際救援活動に、自衛隊などが参加することを可能にした「国際平和協力法(PKO法)」が成立した1992年に、カンボジア派遣から本格的に始まった自衛隊によるPKOは、2022年で30周年を迎えます。この30年間に、自衛隊はどのような活動で世界に貢献し、各国はどう評価しているのでしょうか? 関わった人々の声、送られたコメントを基に検証します。
カンボジア
国連カンボジア暫定機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia 略称UNTAC)
●1992年9月~93年9月
●派遣隊員延べ1332人
PKOの背景:全面戦争になったカンボジア
カンボジア王国が倒れた1970年、国家元首の外遊中に右派がクーデターを起こし権力を握ると、アメリカと南ベトナム軍がそれに味方し、カンボジアは全面戦争に巻き込まれた。解任された国家元首が解放軍を立ち上げると内戦はますます激化。73年に「パリ和平協定」が成立したことで戦局は解放軍に有利に傾き、91年に「パリ和平協定」が締結。92年、国連がUNTACを設立し、カンボジアが政府を設立するまでの間、統治することになった。
UNTACとは?:初めての自衛隊PKO
UNTACは、自衛隊にとっては初となるPKO。日本は、武装解除のため集められた武器の保管状況や停戦順守状況の監視、選挙の公正な執行の監視、現地警察に対する助言・監視、道路や橋の補修などの協力を行った。また、憲法制定議会選挙(注1)に協力するため、UNTACには広報・教育用としてテレビ、ビデオ、小型発電機のセットなどの視聴覚機材を、また武装解除される20万人の兵士とその家族には医薬品を提供した。
(注1)憲法改正を目的とした臨時の立法機関である「憲法制定議会」のメンバーを国民の中から民主的に決める選挙
自衛隊のイメージはキンタロウ。カンボジア人が息子に名付けた
【軍事ジャーナリスト 井上和彦】
専門は軍事安全保障・外交問題・近現代史。著書に『日本が感謝された日英同盟』(産経新聞出版)、『そのとき自衛隊は戦えるか』(扶桑社)など
陸上自衛隊の施設大隊と停戦監視要員が、カンボジアへ派遣された1992年から25年後の2017年。私は自衛隊の宿営地があったカンボジアのタケオを訪れました。かつての宿営地は、今はサッカー場として整備され、平和な光景が広がっていました。取材を進める中で現地の人たちから聞こえてくるのは、当時の自衛隊への感謝の言葉ばかり。通訳のソフィアさんは、2人のお子さんに、それぞれカオリとキンタロウと名付けたそうです。
キンタロウを選んだ理由は、「よく働き、親孝行で正直者で正義のために戦うから」だそう。カンボジアの人たちにとっては、このイメージこそが自衛隊なんだなと理解しました。PKOは日本の国際貢献であり、果たすべき責務ではありますが、そういった形に表れる以上のものを、自衛隊はカンボジアに残してきてくれたのだと思います。
カンボジアは自衛隊に感謝し、その恩を忘れません
さらに、井上氏が現地で聞いたカンボジア元情報局職員・サオ・サリ氏のコメントも紹介しよう。
「自衛隊がやってきたときは本当にうれしかったです。道路や橋を造ったり補修してくれたことはもちろんありがたかったですが、彼らはとても親切で温かく、村の人々とも親しい交流がありました。自衛隊がやってきてくれたおかげで、夜も安心して眠れました。今後、またカンボジアで何かあったら、ぜひ、助けに来てください」
紙幣に描かれた日の丸はカンボジアの感謝の印
日本からの派遣部隊は、約1年間の任務期間中に、内戦で破壊された道路や橋を補修するなどして、カンボジアの復興に貢献した。補修した道路は約100キロメートル、橋は約40基にのぼる。カンボジアの紙幣500リエルの裏には、日本のODA(注2)でメコン川に架けられた「きずな橋」、「つばさ橋」とともに「日の丸」が描かれているのだ。
(注2)政府の資金で行われる、開発途上国などに対する援助や協力
東ティモール
国連東ティモール暫定行政機構(United Nations Transitional Administration in East Timor 略称UNTAET)
●2002年2月〜04年6月 ●派遣隊員延べ2304人
国連東ティモール統合ミッション(United Nations Integrated Mission in Timor-Leste 略称UNMIT)
●2010年9月~12年9月 ●派遣隊員延べ8人
PKOの背景:不法占領下から独立
ポルトガル領ティモール(現・東ティモール)は、1975年のインドネシアの侵攻により不法占領下に置かれると、インドネシアからの解放を望む住民の声が高まった。98年にインドネシアの独裁政権が倒れると、新政権が東ティモール独立容認の立場を取ったため、99年、インドネシアとポルトガルが「東ティモール自治拡大に関する直接住民投票実施」で合意。国連は投票結果を受け、東ティモール独立を支援する目的でUNTAETを設立した。
UNTAETとは?:独立支援のための派遣
日本は東ティモールで、道路・橋などの維持補修、選挙の公正な執行の監視、武力紛争停止の順守状況の監視、避難民のための救援物資の輸送などの協力を行った。2002年5月20日より「国連東ティモール支援団(UNMISET)」に移行。
UNMISETとは?:安定強化のための派遣
東ティモールの治安が悪化したことを受け、同国の安定強化と国づくり支援のため設立。自衛隊からは軍事連絡要員を派遣。
女性初のPKO個人派遣。現地住民に寄り添う気持ちで
【陸上自衛隊教育訓練研究本部 研究部 栗田千寿1等陸佐】
2011年に半年間、UNMITへ派遣。軍事連絡部門の一員として、第2の都市・バウカウのパトロール、情報収集などを行った
私の所属するチームの担任区域は国の東半分と非常に広く、パトロール時の訪問先は、病院、学校、警察など、120カ所以上。現地で唯一勤務していた日本人として、常に腕の国旗を見せつつ、現地住民に寄り添う気持ちで話を聞き、礼儀や心配りも忘れない活動を心掛けました。
ある村では、女性の多くが1度も村を出たことがないと伺いましたが、貧しい生活の中、たくさんの子どもを慈しみ育てている女性たちと、言葉を介さない「敬意の交換」をした瞬間が忘れられません。現地通訳の方に「日本人が一番好き」と言われたときは、うれしかったですね。
気候風土やインフラなど、日本との違いに驚きの連続で、最高のごちそうがサンマ缶だったり、シャワーが水のみだったなど、苦労もありましたが、「大変!」と感じないずぶとさを身に付けたのも、収穫の1つです。
難民の生活再建に貢献。今後は教育分野や建設分野で支援を期待
【駐日東ティモール民主共和国 特命全権大使 イリディオ・シメネス・ダ・コスタ】
2020年より現職。日本駐在大使として、日本と東ティモールの外交関係の促進に努める
自衛隊には、難民となっていた人たちが生活を再開するための支援をしてもらいました。道路の再建にあたる姿を見たことがありますし、私が住んでいた地域では、サッカー場などのコミュニティーの再建にも尽力いただき、それは今でも使われています。
また、その際に自衛隊が使用していた重機を寄贈してくれたことで、撤退後も現在に至るまで、東ティモールを支援してくれていると感じます。シャナナ・グスマン元大統領は著書の中で、「日本の支援がなかったら東ティモールの再建はもっと困難であっただろう」と書いていますし、ラモス・ホルタ元大統領も、「自衛隊が東ティモールの再建に大きな役割を果たしてくれた」と、しばしば語っています。今後もセキュリティーのみならず、教育分野や建設分野での支援も期待しています。
(MAMOR2022年6月号)
<文/真嶋夏歩 写真提供/防衛省、内閣府 撮影/山田耕司(扶桑社)(井上氏)>