•  戦後日本、自衛隊を見る社会の目は、今日では考えられないほど厳しいものであった。そうした中で生じた特徴的な事件・事故について、元防衛大学校の准教授・相澤輝昭さんに解説していただく。

    「55年体制」と「戦後平和主義」

    1970年11月25日、市ケ谷駐屯地のバルコニーにて演説を行う三島由紀夫
    写真/オランダ国立公文書館資料より

     1970~80年代の主要な事件・事故と、それに対する世間の反応という観点から、当時の政治、社会の自衛隊に対する見方について述べてみたいと思います。政治体制については、1955年以来、自民党が与党、社会党が野党第1党という構図が定着し、「55年体制」(注1)と呼ばれていました。その下で防衛、安全保障問題は憲法論議やイデオロギー論争になりがちで、現実的な論議がしにくい状態が続きました。

    (注1)1955年に成立した、与党の自由民主党(自民党)と野党第1党の日本社会党(社会党)が対立した政党政治の体制。93年の衆議院選挙で自民党が過半数割れし、日本新党の細川護熙首相(当時)による連立政権へ社会党が参加したことによって終わりを迎えた。

     また、世論も先の大戦の記憶や占領政策(注2)の影響から、一般的に軍事問題を忌避する傾向があり、これは「戦後平和主義」(注3)と呼ばれていました。すなわち、自衛隊を見る社会の目は、今日では考えられないほど厳しいものがあったわけですが、そうした中で生じた特徴的な事件・事故をいくつか取り上げてみたいと思います。

    (注2)第2次世界大戦敗戦後の1945年から52年まで、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が主導して実施した政策。日本を再び脅威とならない国へと変えるため、「非軍事化・民主化」を軸に、武装解除や社会改革を行った。

    (注3)日本国憲法第9条は「戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認」という平和主義の原則を定めたものであるが、ここでいう「戦後平和主義」とは、戦後まもなくから冷戦期にかけて「進歩的文化人」と呼ばれた識者らが主張したものであり、日米安保や自衛隊の存在を否定的に捉える傾向があった。

    ●三島事件

     1970年11月、ノーベル賞候補といわれていた作家・三島由紀夫が、自ら組織した「盾の会」会員と共に市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、隊員に憲法改正を目指すための決起を呼びかけましたが、呼応する者は1人もなく割腹自殺した事件。大変衝撃的な事件でしたが、もちろんその後も自衛隊が三島の主張に同調するようなことは一切ありませんでした。

    ●雫石事故

     1971年7月、岩手県雫石町の上空で全日空機と訓練中の航空自衛隊機が空中衝突した事故。空自機の乗員は脱出しましたが、全日空機は乗員・乗客計162人全員が死亡しました。事故は、2機編隊で訓練飛行中の空自機に全日空機が追突する形で生起したものでしたが、民間機航空路の付近で訓練していたことが強い非難を受け、その後、自衛隊の訓練空域と航空路は完全に分離されることとなりました。

    ●ミグ25事件

     1976年9月、旧ソ連空軍戦闘機ミグ25が函館空港に強行着陸、操縦士が亡命を希望した事件。操縦士はアメリカへの亡命が認められ、機体は日本とアメリカが合同で調査した後に旧ソ連に返還されました。一時は緊張が高まりましたが、関係部隊は警戒監視の強化の範ちゅうで対応しました。

     また、低空侵入してきた同機が、BADGEシステム(注4)では捕捉できなかったことから、早期警戒機E-2C導入の契機ともなりました。

    (注4)Base Air Defense Ground Environment systemの略で、航空自衛隊が運用していた全国規模の自動防空警戒管制システムのこと(現在は後継システムに移行)。レーダーで領空を常時監視し、敵機を発見・識別して、脅威と判断された場合には、戦闘機などを目標に向かわせ迎撃を管制する。

    ●栗栖発言問題

     1978年7月、栗くり栖す弘ひろ臣おみ統合幕僚会議議長が週刊誌で、「奇襲侵略を受けた場合、第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはあり得る」として、有事法制整備を促す発言を行い、文民統制(注5)上、不適切として事実上の解任をされた問題。しかしその後、福田赳たけ夫お首相が「有事法制研究」(注6)の実施を指示し、結果的にはその後の法制整備実現に向けての契機となりました。

    (注5)軍人ではない民主的に選ばれた政治家(文民)が、軍隊の指揮・統制を行う原則のことで、シビリアン・コントロールという。日本では、内閣総理大臣や防衛大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つことを指す。

    (注6)「有事法制」の中で「自衛隊の行動にかかわる法制」の研究は、1978年に内閣総理大臣の了承の下、防衛庁長官の指示によって、法制化を前提とすることなく開始された。

    ●なだしお事故

     1988年7月、横須賀港沖で海上自衛隊の潜水艦『なだしお』と遊漁船「第一富士丸」が衝突し、「第一富士丸」が沈没、同船の乗員・乗客計30人が死亡した事故。衝突後、「潜水艦は救助活動をしなかった」(艦体の構造上、本格的な救助活動は困難)として、強い非難を受けることになりました。

    【元防衛大学校 防衛学教育学群 准教授 相澤輝昭】

    海上自衛官として掃海艦『はちじょう』の艦長などを務め、退官後は、外務省アジア大洋州局地域政策課専門員、笹川平和財団海洋政策研究所特任研究員を歴任。2020年より防衛大学校 防衛学教育学群 准教授で、専門は自衛隊史など

    (MAMOR2026年5月号)

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    ー相澤准教授の自衛隊史リモート講座ー

    ●本稿は著者の個人の見解です 

    ※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです

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