国ができ、国境が敷かれ、外交官が派遣され、軍人が同行する。そんな駐在武官(注)の起源は、19世紀初めのナポレオン時代にあるといわれている。
では、近代国家の仲間入りを果たした明治の日本はどうだったのか、日本の駐在武官の歴史を解説する。
(注)正式には「在外大・公使館付武官」という
日本の駐在武官は長州出身の陸軍大佐が最初
桂のドイツ派遣の際に、駐在武官の服務心得を渡したとされる山県有朋。その内容は、現在の防駐官の服務心得と大きく変わらない
「軍事に関する機密情報を扱ったり、諜報活動なども行った例もあるせいか、駐在武官の歴史や制度に関する研究・報告は世界的に極めて少ないです」と話すのは、駐在武官に関する数少ない貴重な研究を発表している防衛研究所戦史研究センター長の立川京一教官だ。
しかし日本の最初の駐在武官ははっきりしている。立川教官の研究論文によると、1875(明治8)年2月2日に清国の公使館付陸軍武官に任命された福原和勝陸軍大佐である。
陸軍少佐だった桂太郎が陸軍卿の山県有朋に、清軍の実情を視察するために武官の派遣を進言した結果だった。
日本初の駐在武官を清に派遣するよう、陸軍卿の山県に進言した桂。自身も駐在武官としてドイツに赴任している
福原は長州藩の奇兵隊の出身で、イギリス留学の経験のある優秀な人物だった。福原が清に赴任するにあたっては、陸軍将校や会計担当、奉公人など多くの人間が随行したとされている。
立川教官は、清への武官派遣の目的は、海外の脅威への対応があったとみている。
「派遣の前年に明治政府は清領の台湾に出兵し、清とは和議を結んだ直後のことだったので、当時の明治政府にとって清は脅威だったのだと思います。それと同時に桂は、陸軍を整備するためには、有能な人材を実際に欧米に派遣して研究させるべきだと主張しています」
立川教官は、清へは軍事情報の収集、欧米へは知識の収集と、武官派遣も目的が異なるとみている。
桂自身、75年に在ドイツ公使館付陸軍武官になっている。桂が武官としてドイツに向かうときに、山県は服務心得を渡しているが、武官は公使の配下に属し、行動は全て公使の許可が必要で、獲得した情報は必ず外務省に報告するなど、現在の防駐官とほぼ同じルールとなっている。
時代に合わせて駐在武官の派遣国は増えていった

日本初の駐在武官が清に派遣される前年の、1874年台湾出兵時の写真。指揮をとった陸軍中将の西郷従道(中央のいすに座っている)とその幕僚および現地住民
一方旧海軍は、80年11月30日付けで高田政久中尉を在ロシア公使館付海軍武官として、翌日には黒岡帯刀少佐を在イギリス公使館付海軍武官として任命した。
この後1900年までに旧陸・海軍共に、それぞれ8カ国に武官を駐在させ、その数は20世紀に入って飛躍的に多くなる。第1次世界大戦のころからは、欧米の大国だけでなく中小国への派遣が増えた。
30年代からは旧海軍の南方への関心が高まり、タイや東インドを植民地とするオランダへ武官を赴任させた。
また第2次世界大戦が開戦すると、非参戦国であるスペイン、ポルトガル、アルゼンチン、チリ、永世中立国であるスイス、スウェーデンにも武官が駐在し始めた。中立国には、戦争で敵対する双方から比較的正確な情報が早く豊富に集まる傾向にあったからだ。
こうした駐在武官制度は第2次世界大戦の終結まで続いたが、戦前の武官の中には桂をはじめ、寺内正毅、東條英機、斎藤実、米内光政など後の総理大臣や、山本五十六、梅津美治郎、山下奉文、井上成美など多くの旧陸・海軍大将がおり、エリートコースだったことがうかがえる。
余談だが、駐在武官の夫人は、武官の補佐官の代わりを務める存在でもあり、特に旧陸軍では、暗号電報作業や暗号表の管理は夫人が協力する習わしがあったという。それゆえ夫人を同伴して駐在する武官の在勤俸(給料)には「妻加算」がなされていた。現代の防駐官夫人とは大きく異なる点の1つだろう。
【立川京一教官】
防衛省防衛研究所戦史研究センター長。2014年に「我が国の戦前の駐在武官制度」と題した研究論文をまとめた
(MAMOR2025年6月号)
<文/古里学 写真提供/防衛省>
※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです



