月刊『マモル』で連載されている「女性自衛官たち」。さまざまな女性の幹部自衛官に密着取材し、その任務から私生活までに迫るルポルタージュだ。その9人分をまとめた書籍『私は自衛官 九つの彼女たちの物語』が発売された。作家・杉山隆男氏による『兵士に聞け』『兵士を見よ』など一連の「兵士シリーズ」の最新刊だ。
マモルの連載を開始したときの意気込みを、杉山隆男氏にうかがってるので、そのインタビューをあらためて紹介しよう。
【杉山隆男(すぎやまたかお)】
1952年、東京生まれ。一橋大学社会学部卒業後、読売新聞記者を経て執筆活動に入る。1986年に新聞社の舞台裏を克明に描いた『メディアの興亡』(文春文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1996年、『兵士に聞け』(小学館文庫)で新潮学芸賞を受賞。以後、『兵士を見よ』『兵士を追え』(共に小学館文庫)『兵士は起つ 自衛隊史上最大の作戦』(扶桑社新書)と続く「兵士シリーズ」を刊行。7作目『兵士に聞け 最終章』(新潮文庫)で一旦完結。その後、2019年より月刊『MAMOR』で、「兵士シリーズ令和伝 女性自衛官たち」の連載を開始。ほかに小説『汐留川』『言問橋』(共に文藝春秋)、『デルタ 陸自「影」の兵士たち』(新潮社)、『OKI囚われの国』(扶桑社)など著書多数。
自衛隊は『日陰者』だった
Q:『兵士に聞け』を取材・執筆されていたころと比べ、自衛隊、またその中にいる自衛官はどのように変わったと感じますか?
『兵士に聞け』の取材を始めたのは1992年秋ですから、それからもう30年近くの歳月が流れたことになります。ほぼ世代替わりしたということでしょう。
その間に自衛隊の何が変わったのか。隊舎を歩いていてもタバコの臭いがまったくしなくなったとか、飛行隊から罰金帖(編集部注:『兵士を見よ』参照)が消えたとか、さまざまあると思いますが、象徴的なこととして思い浮かぶのは、取材をスタートさせてすぐの、93年3月の防衛大学校の卒業式です。当時の学校長が卒業生を送るスピーチで、「日陰者」という言葉を口にしたのです。
「君たちが日陰者であるときの方が国民や日本は幸せなのだ、耐えてもらいたい」という、自衛隊の生みの親、そして戦後日本の枠組みをつくった宰相吉田茂が、防大1期生に向けて語った言葉からの引用でした。
とはいえ、卒業生へのはなむけの場でこの言葉が語られたことが私には衝撃でした。やはり卒業式に参列していた知人の雑誌編集長も、「ここではまだ自衛隊について『日陰者』という言葉が使われるのですね」と感慨深げに語っていました。
災害派遣やPKOで自衛隊の存在感が高まる
しかしそれからひと世代の歳月を経て、今、日陰者という言葉を現役の自衛隊員や防大生を前に口にしても、大半の人が、何のことなのか、実感がないというか、恐らくピンとこないでしょう。
東日本大震災をはじめとする災害派遣やPKOなどでのさまざまな活動を通じて、自衛隊の存在感は確実に大きく確固たるものになりました。実際に隊員を眺めていても、あくまで自然体で、後ろ暗さのようなものはみじんも感じられません。たくましく日焼けをして、エネルギッシュで、オフのときには、地域や子どもたちのスポーツクラブのコーチ役を買って出たり、ボランティアに参加したり、「日陰者」という言葉からは、はるかに遠い人たちです。
しかし、アメリカなど諸外国における「軍」のように、日本社会がこの組織を、当たり前、自明のものとして受け入れているのかといえば、やはり私には懸念が残ります。憲法第9条の問題(注)が根本的に解決されない限り、何かの局面で、例えば災害派遣ではなく、自衛隊が創設以来初めて実力を行使しなければならないような場面が訪れたとき、この組織への、国民の反応はまた、振り子のように極端に振れていくのではないか。
変わりゆくものの底に、変わらぬものがまだ横たわっているような気がするのです。
(注)日本国憲法第9条は「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を規定し、日本国憲法の掲げる「平和主義」を示しているが、解釈が曖昧なため、戦後つくられた自衛隊についてもさまざまな議論が繰り返されている
子連れ出勤する女性自衛官たち
Q:「女性自衛官たち」を執筆するにあたり、初めて女性自衛官を取材し、感じることはありますか?
自衛隊の現場を取材すると、必ず新しい発見があります。というより先入観を見事に打ち砕かれるのです。「女性自衛官たち」の取材はまだスタートしたばかりですが、私は早くもガツンとやられました。
初編の主人公となった航空自衛隊の吉田ゆかり1佐も、そしてこれから次編で登場する陸上自衛隊の塚口千枝3佐も、自衛官であると同時に「母親」です。働きながら、育児もしなければならない。
では、仕事なのに、子どもを預かってくれるところがどうしても見つからない場合、母である彼女たちはどうしていたのか。
驚くことに、2人とも「子連れ出勤」をしていたのです。吉田1佐は、休日どうしても出勤しなければならないときなどは、勤務する市ケ谷防衛省の庁舎に、陸自で女性初のヘリコプターパイロットとなった塚口3佐は、災害派遣のときなど突発的な業務の際は、ヘリ部隊が展開している駐屯地の職場に、それぞれ子どもを伴って行き、通常通りに仕事をこなしていました。
「仕事をしている間、お子さんはどうしていたのですか」
「ああ、そのへんで遊んでました」
2人からは、偶然にもまったく同じ答えが返ってきました。それも、事もなげというか、実に、あっけらかんと答えるのです。私は思わず、へぇー、と声を上げてしまいました。塚口3佐に至っては、駐屯地のトップ方も理解があり、部屋に見学にきてもよいという方もいたそうです。
自衛隊の子育てに対する理解も
自衛隊といえば、「いかめしく」、「警備厳重」、「部外者立入禁止」といった言葉ばかりが思い浮かびます。自衛隊から、「子どものいる風景」はどうしても想像つきません。しかしその想像を裏切って、2人の母親は職場である自衛隊に子どもを連れて行き、上司や同僚といった周囲もそれを受け入れてくれたのです。それだけ、子育てへの理解があったということでしょう。
あのものものしい警備に囲まれた市ケ谷防衛省のゲートを、子どもを連れた母親自衛官がくぐり抜けるというのは、普通なら想像できないですよね。しかし、彼女はあっけらかんとやってのける。月並みな表現ですが、母強し、です。肩肘張るわけでもないけれど、その無手勝流なやり方で、私たちの想像を見事に裏切って、道を開いていく。
民間でも「子連れ出勤」はハードルが高いでしょう。しかし自衛隊という職場は違った。25年以上の自衛隊ウオッチャーを任じてきた私ですが、これは目からウロコでした。まったく違う自衛隊の「顔」がのぞけたのです。これだから、取材はやめられない。と同時に、まだまだ取材道の修行が足りないなと思い知らされました。
新刊『私は自衛官 九つの彼女たちの物語』に登場する彼女たちは、私がこれまで目にすることもなかった自衛隊のさまざまな姿を見せてくれるはずです。読者の皆さんもぜひご期待ください。
<文/MAMOR編集部 写真/山田耕司>