•  潜水に関する医学や心理学、人間工学などを研究し、深海で遭難した潜水艦から乗員を救出するという特殊な任務を担う潜水士を養成しているのが、神奈川県横須賀にある海上自衛隊潜水医学実験隊(潜医隊)だ。

     すさまじい水圧に耐えながら安全で確実な救出作業を行うため、時には深度450メートルを想定した環境での作業も行う。日本で一番深い海に潜る隊員たちの訓練に密着した。

    選ばれた者のみが挑戦できる深海への潜水員を養成する課程

    画像: 深海潜水訓練装置は真ん中の移乗室を挟んで、左右に2つの減圧室(居住区画)がある。減圧室は内径2.1メートル、長さ7.1メートル。シャワーやトイレも完備されている

    深海潜水訓練装置は真ん中の移乗室を挟んで、左右に2つの減圧室(居住区画)がある。減圧室は内径2.1メートル、長さ7.1メートル。シャワーやトイレも完備されている

     隊員たちが行う「飽和潜水」とは、人間が深海の水圧に耐え、安全に長時間作業ができるように開発された潜水技術。その習得のために日本に1基しかない装置がある。

     潜水医学実験隊の課程教育には、水圧が高いうえに大量のヘリウム酸素を必要とする深深度で作業を行う飽和潜水員を養成する「幹部・海曹士専修科飽和潜水課程」と、潜水医官を養成する「幹部専修科潜水医官課程」がある。

    画像: 裏側から見た移乗室。この装置の中は、最大、地上の50倍もの気圧をかけることが可能とされている

    裏側から見た移乗室。この装置の中は、最大、地上の50倍もの気圧をかけることが可能とされている

     今回は、潜水医学実験隊の中でも、特殊な任務にあたる飽和潜水員について紹介する。

    「飽和潜水課程」に進むには、まず広島県江田島市にある砲術、水雷、通信、潜水など専門分野の教育・訓練を行う第1術科学校潜水科で、潜水作業の基本と空気ボンベで水深20メートルまでの潜水技術を習得する約7週間の「専修科開式スクーバ課程」、さらに水深40メートルまでの潜水技術を習得する約15週間の「海曹士特修科潜水課程」を修了しなければならない。

     この後、希望者の中から選抜された学生が、水中での危険物の処理を専門とする「水中処分員」あるいは「飽和潜水員」を養成する専門課程に進むことになる。

    画像: 深海潜水訓練装置内で過ごす飽和潜水員は、週に1回、脳波のチェックを受ける。このほかにも心拍数のデータや、就寝中は心電図を計測し、細心の注意を払う

    深海潜水訓練装置内で過ごす飽和潜水員は、週に1回、脳波のチェックを受ける。このほかにも心拍数のデータや、就寝中は心電図を計測し、細心の注意を払う

     入学は毎年10月で学生数は5~12人と少数精鋭である。ここで学生は約4カ月にわたって、座学はもちろん、深さ11メートルの訓練水槽でさまざまな実技訓練を行う。

     潜水作業は2人1組の「バディ潜水」が基本なので、訓練では実技役2人とそれを見守る水中警戒員2人が一緒に潜る。1回の訓練は、15分から30分を3セットほど。実は潜水訓練で大切なのは事前の準備を入念に行うことで、そのため装備の点検や訓練の段取りの確認など、潜る前にチェックすべきことが数多くある。

    画像: 選ばれた者のみが挑戦できる深海への潜水員を養成する課程

     この飽和潜水課程のハイライトが、年始に行われる「学生飽和」だ。学生は、水深60メートルの深海を再現した「深海潜水訓練装置」で飽和潜水訓練を1週間にわたり実施する。その間、地上の7倍もの気圧下にある装置内の居住区画から1歩も出ることはできない。

     この学生飽和の修了者が晴れて「飽和潜水員」となり、潜水艦救難艦『ちよだ』や『ちはや』などに配属されるのが一連の流れとなる。この工程数の多さからも分かるように、飽和潜水員への道のりは長く険しいのだ。

    人間が深度450メートルで活動するための技術

    画像: 高気圧酸素治療装置で、バレーボールを加圧する実験を公開してくれた。わずか4気圧を加圧しただけでバレーボールはぺしゃんこになってしまった

    高気圧酸素治療装置で、バレーボールを加圧する実験を公開してくれた。わずか4気圧を加圧しただけでバレーボールはぺしゃんこになってしまった

     普段われわれが地上にいる場合、体にかかる気圧は1気圧である。これが水中に入ると水の重さ、いわゆる水圧がかかってくる。それは10メートル潜るごとに1水圧、1平方センチメートルにつき1キログラムの水圧が加わってくるのだ。

     さらに深海へと潜り高い圧力が人体にかかると、体内にある窒素ガスなどがどんどん血液などの体液に溶け込むという現象が起きてくる。そしていったんガスが溶け込んだ状態で海底から浮上するときに、短時間で浮上して体が急激に水圧から解放されると、今度は体液中のガスが膨らんで気泡になり、例えばそれが血管に詰まると、ひどい場合は死に至る場合もある。

     分かりやすい例えでいうと、炭酸水のボトルを開けると急に泡が吹きこぼれる状態だ。炭酸ボトル内は3~4気圧、これが急に通常の1気圧の下にさらされると、水に溶け込んだ炭酸が一気に泡となって中から吹き出る。これが体内で生じるのである。

    画像: 飽和潜水の実施中は、モニターや各種計測器具を通して24時間、隊員の健康状態をチェックする

    飽和潜水の実施中は、モニターや各種計測器具を通して24時間、隊員の健康状態をチェックする

     体内で気泡が生じると、関節の痛みや皮膚の発赤、手足の痺れや知覚障害、めまいなどが生じる減圧症にかかってしまうこともあるという。このようにならないために、深海で安全に長時間にわたって作業ができるよう開発されたのが「飽和潜水」という潜水技術なのだ。

    画像: 深海潜水訓練装置にはヘリウムと酸素の混合ガスを注入し、潜水する深度に合わせ加圧をしていく。施設内にはそれらに使用する大量のガスが設置されていた

    深海潜水訓練装置にはヘリウムと酸素の混合ガスを注入し、潜水する深度に合わせ加圧をしていく。施設内にはそれらに使用する大量のガスが設置されていた

     深海で遭難した潜水艦を救助するなど飽和潜水を行う潜水員は、まず高い圧力環境を再現・維持できるカプセルに入り、作業現場と同じ水圧までカプセル内の圧力を上げ、水中へと移動する。そして作業終了後は、今度はゆっくりとカプセル内の圧力を減じていき、体に溶け込んだガスが気泡にならないようにしていかなければならない。その期間は、例えば450メートルの飽和潜水の場合、3週間ほどとかなりの長時間に及び、その間潜水員はカプセルから1歩も外に出ることはできない。

     飽和潜水の訓練は、最初は学生飽和の60メートルから始まり、課程修了後は2週間の200メートル、1カ月の450メートルとどんどん深度を深めていく。

    潜水医学実験隊研究職の岩川技官の専門は高圧下の筋肉や神経の活動分析。「海外の学会でも飽和潜水に関する研究発表をしていますが、潜医隊の研究は海外でも高く評価されています」

     実験第3部に所属する岩川孝志研究技官は、「飽和潜水は大がかりな装備、設備が必要なシステム潜水なので、潜水員はそれを操作できる知識と技術を習得しなければなりません。その上、体への負担も大きいので、段階的に深度を深くしていく訓練を積み重ねていく必要があります」と、深度を深めていく潜水訓練の重要性を説明する。

    画像: 潜水員が持ち込む装備品を加圧しチェックをするための耐圧チャンバー。潜水員はダイバーズウオッチを必ず身に着け、また、光の届きにくい水中などで作業をするため海中ライトなど持ち物も多い。それらの装備品が高気圧下で正常な動作をするか加圧テストで動作確認などを行う

    潜水員が持ち込む装備品を加圧しチェックをするための耐圧チャンバー。潜水員はダイバーズウオッチを必ず身に着け、また、光の届きにくい水中などで作業をするため海中ライトなど持ち物も多い。それらの装備品が高気圧下で正常な動作をするか加圧テストで動作確認などを行う

     そしてこの訓練が行われるのが、日本では、潜水医学実験隊にしかない「深海潜水訓練装置」だ。この装置は、居住区画となる2つの減圧室と、潜水準備区画である移乗室、その地下に接続されている深海を模擬した訓練水槽(ウエット・ポッド)で構成される。

     450メートルの飽和潜水訓練は、現在3年に1回の実施。毎回6人がこの限界領域にチャレンジしている。この6人に求められるものは何か。

    「チームで1カ月間起居をともにするのですから、和を大切にする明るい性格が求められると思います。さらに2人1組のバディ潜水は、バディに何かあったときに、もう1人がそれを助けなければならないので高い体力が必要です。ただ、ダイバーは、体脂肪などが極端に低いアスリートとは違い、ある程度は脂肪を残しつつ、低水温時にも体温が下がりにくい、そして水に沈みにくいような体づくりをしていくのが重要です」そう岩川技官は語っている。

     
    (MAMOR2019年11月号)

    <文/古里学 写真/長尾浩之、防衛省>

    日本で一番深く潜る男たち

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