1925年にラジオ放送が開始されてから100年。ラジオは歴史の局面でさまざまな役割を担ってきた。
テクノロジーが進歩し新しいメディアが次々と登場している21世紀において、再び脚光を浴びつつある。最も古い放送媒体であるラジオが、いかに人々の心をつかみ、動かしてきたか、日本ラジオ博物館館長岡部匡伸氏の監修の下、その歴史を振り返ってみよう。
ラジオ放送の始まりとライフスタイルの変化

初めてラジオ放送を行ったとされる、レジナルド・フェッセンデン
1900年にカナダの電気技師レジナルド・フェッセンデンが音声を無線で送信したことがラジオの始まりといわれている。
6年後、クリスマス・イブにフェッセンデンは、音楽や音声を数キロメートルの範囲にわたり送信。当時の受信記録は残っていないが、これが世界初のラジオ放送とされている。
1920年代にアメリカ合衆国政府の出版物には自家製ラジオ受信機を作る方法が示されていた
20年にアメリカで最初の民放ラジオ局が開局。それから遅れること5年、日本でも東京、大阪、名古屋の3カ所に行政の許可を受けた社団法人が設立されラジオ放送が開始された。
その背景には23年の関東大震災で新聞社が被災し、国民への情報伝達に支障が出たことがあった。放送開始当時のラジオ受信機は高価で富裕層しか番組を聴くことができず、普及率はわずか2パーセントしかなかった。当時の日本のラジオ番組は、ほかの国にはない大きな特徴があったと岡部氏は言う。
1925年のラジオ番組表。為替相場を伝える番組が多かった
「外国のラジオでは音楽番組、娯楽番組やニュースがメインでしたが、日本の場合、平日はほとんど株式や商品相場などの経済情報番組でした。当時ラジオを購入できる高額所得者にとっては、ラジオは貴重な情報源だったのでしょう。
その一方でニュースが少なく、これは当時ラジオ局の出資社である新聞社が自社の新聞の売上をおもんぱかったことが影響しているようです」
28年には旧東京中央放送局(現NHK)が大相撲中継やラジオ体操の放送を開始、また全国ネットが完成した28年に昭和天皇の即位の大礼があり、その模様を全国同時に聴取できることでラジオ普及の後押しとなった。
当時、ラジオを受信するには、政府の認可を得た受信機が必要だったが、日本のラジオの普及率は30年代に10パーセント、44年には50パーセントを超え、政府の認可を受けた聴取数は750万件にまで拡大した。
さらにそれまで感度が低く音量に制限があった鉱石ラジオに代わり、スピーカーで増幅して音を出すことができる真空管ラジオが登場し、お茶の間で家族そろってラジオを聴きながら過ごすというライフスタイルが確立していったことも挙げられる。
またこのころ、ラジオの力を人々が実感する出来事が次々に起こる。31年9月18日夜に勃発した満州事変は、翌日の朝7時に旧東京中央放送局により第一報が告げられた。
アメリカのルーズベルト大統領(当時)は就任8日後の33年3月12日から毎週ラジオで国民に語りかける「炉辺談話」の放送を始める。ヒトラーの演説の勇ましい絶叫調とは違い、「My friend」と語り始め、ゆったりと落ち着いた口調で政策を解説、旧日本軍の真珠湾攻撃の2日後には番組で国民の団結を呼びかけた。
36年勃発の、旧日本陸軍が首相官邸などを襲撃した「二・二六事件」では、3日後の2月29日8時48分から反乱軍兵士に投降を呼びかける「兵に告ぐ」が旧東京中央放送局から放送されるなど、ラジオは、単なる娯楽ではなく、国家が意思を伝達する手段として利用されるようになった。
39年9月にドイツに宣戦布告をしたイギリスの国王ジョージ6世は、自らの吃音を克服してラジオの生放送で国民に戦争の開始を告げるスピーチを行い、その模様は後に映画にもなった(『英国王のスピーチ』2010年/イギリス・オーストリア)。
またイギリスの首相ウィンストン・チャーチル(当時)もしばしばラジオで国民を鼓舞する演説を行い、なかでも40年6月の「われわれは戦う、海岸で、上陸地点で、野原で、街頭で、丘で。われわれは決して降伏しない」という演説は、劣勢にあったイギリス国民に勇気を与え、世界史を変えた名演説と言われている。
40年にドイツに侵攻されたフランスでは、レジスタンス組織の「自由フランス」がラジオを通じて国民に抵抗を呼びかけた。
20世紀はラジオの時代に。大衆に訴えかけ動員する力
ラジオの速報性、影響力が明らかになるにつれ、世界各地でラジオを積極的に利用しようという動きが出てくる。
早くからラジオの有効性に気づいていたナチス・ドイツは、宣伝相のゲッベルスが「19世紀の新聞がなしたことを20世紀ではラジオが達成する」と語り、その普及を図るため安価で国内放送で使用されていた周波数しか聴けない「国民ラジオ」を開発。
これにより39年までにドイツの全世帯の70パーセントがラジオを所有し、その普及率は世界で最も高かった。フランス占領下にあったザール地方ではナチスが5000台の国民ラジオを配布し、その結果、35年に行われた住民投票で住民の9割以上がザール地方のドイツ帰属に賛成して再びドイツ領へと戻った。
こうした国民向けの放送だけでなく、受信機さえあれば国境を越えて聴取が可能なラジオは敵国への喧伝にも使用され、事実を伝える報道だけでなく、フェイクニュースや偏向した報道で相手を混乱させたり士気の低下を図ったりする放送も行われた。
イギリスのBBCは早くも27年には海外に向けて国内外のニュースを放送開始、現在でも33の言語で全世界に向け放送を展開している。アメリカは42年から、政府が運営する日本とドイツの占領地向けの「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」が放送を開始。
日系アメリカ人によるニュースやアメリカの文化を紹介する日本語放送が南太平洋各地で流れた。また同年からは海外に駐留しているアメリカ軍に対し24時間英語放送の「FEN(現ANF)」が始まり、これは現在も続いている。
日本でも35年から「ラジオ・トウキョウ」が始まり、海外向けに日本の文化や情報などを伝えていた。なかでも有名な放送に、43年から45年8月14日まで続いたラジオ・トウキョウの対外情宣番組『ゼロ・アワー』がある。
これは捕虜となった連合国の兵士や日本人、日系の女性が英語で司会進行する番組で、戦況を伝えるだけでなく、アメリカ兵たちに望郷の念を抱かせ、士気を低下させるためにアメリカの流行歌や捕虜へのインタビューなどを流していた。
この女性アナウンサーは複数人いたが、アメリカ軍兵士は彼女たちを「東京ローズ」と呼び、爆撃機B29の機体にキャラが描かれるほどの人気者となった。
そうした各国のプロパガンダ放送のなかで岡部氏が特筆すべきものとして挙げたのが、42年の旧日本陸軍のインドネシア・ジャワ島バンドン攻略である。
「このときサイゴンの放送局からオランダの局と同じ周波数を使って旧日本軍の戦果を過大に放送し、それを聴いたオランダ軍は大混乱となり無条件降伏しました」
東西冷戦期のラジオ放送。アフリカでは扇動した例も

1945年8月15日に行われた玉音放送を聴く国民
日本でもっとも有名なラジオ放送といえば、やはり45年8月15日の玉音放送であろう。昭和天皇がポツダム宣言を受諾し、国民に終戦を告げる「終戦の詔書」を朗読した放送だ。
太平洋戦争の終結の日はポツダム宣言を受諾した8月14日、またはミズーリ号艦上で降伏文書に調印した9月2日とされるが、ほとんどの日本人が8月15日を終戦の日とするほど、その歴史的な意義は大きい。
戦後の混乱期、46年には、NHKラジオで身寄りや知人の消息を探す番組『尋ね人』の放送が始まった。この番組の効果は大きく、消息の判明率は40~50パーセントに達し、放送終了の61年までの15年間で、10万件近い放送件数のうち、25パーセントが判明した媒体となっていった。
戦後が始まると、東西冷戦期になりプロパガンダ放送はさらに一層熱を帯びてくる。
VOAは47年から旧ソ連に向けてロシア語の放送を開始、また49年にはCIAを通じて資金提供を受け、東側諸国に向けて旧ソ連からの解放を訴える「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」が設立された。
これに対し旧ソ連はジャミングのための基地局を1400以上設置し、西側からの放送を妨害する。しかしそれでもジャズや朗読を流すVOAの人気は高く、80年代初頭には旧ソ連、東側諸国では5200万人もの市民が聴いていたと言われている。
一方、旧ソ連は国際放送である「モスクワ放送」を29年のドイツ語放送から開始、50年代初めにアメリカ向けの放送をスタートする。日本語放送も42年から始まり、93年には「ロシアの声」に改称され2014年まで続いた。
中国は1940年に延安に初めて放送局を開局し、翌年から初めての海外放送として日本語放送を始めた。戦時中は日本軍兵士への降伏を呼びかけるような内容だったが、戦後の文化大革命期は毛語録の紹介や文革礼賛、2000年代以降は文化情報やエンタメ色の強い内容になっている。
「東西冷戦期には各国が激しい広報合戦を繰り広げましたが、冷戦終結後は下火になりました。しかし、1994年のアフリカ・ルワンダの内戦では、現地のフツ族のラジオ局『千の丘』が対抗部族の殺害を促すかのような番組を盛んに放送、3カ月間で80万人も殺害される事態を招いたともいわれています。古いメディアと思われていたラジオが開発途上国では力を持っていることを証明した不幸な事件でした」
そう岡部氏はいまだに衰えないラジオの威力を解説する。
社会インフラとして有事や災害時に役立つラジオ

東京通信工業(現ソニー)が発売した日本製トランジスタラジオ「TR-55」 写真提供/日本ラジオ博物館
その後はテレビやインターネットに押され、メディアの主役の座を明け渡した感のあったラジオだったが、災害時に強いメディアとして近年再び注目されている。岡部氏は、わりと早い時期から災害時にラジオが役立つと認識されていたという。
「1950年に旧東京通信工業(現ソニー)がトランジスタ・ラジオを発売し、59年の伊勢湾台風、64年の新潟地震あたりから普及してきて、停電のときでも聴取できるラジオが力を発揮するようになりました。
阪神・淡路大震災以降も、被害の大きさを伝えるテレビに対して、ラジオは安否情報や救援品の配布情報をきめ細かく伝えるメディアとして活躍しました。このときの対応が契機になって、各地でコミュニティーFMが本格的に運用されるようになり、最近はNHKなどの既存の放送局との連携も盛んになっています」
2016年にはインターネットでラジオが聴取できるアプリ「radiko(ラジコ)」が全国に拡大。全国のラジオ番組だけでなく、過去の放送が聴けるため、若者の聴取者が増えたとされる。
また総務省が発行する『平成24年版 情報通信白書』によれば、震災発生時は即時性の高いラジオの利用率が高く、評価も他メディアと比較して高くなっており、実際、災害発生時に、ラジコへのアクセス数が急増したというデータもあって、災害時に必要とされているメディアということがうかがえる。
「ラジオはほかのメディアと異なり、仕事中や運転中、または家事をしながら〝ながら聴取〟できる生活に根付いたメディアです。また、聴取者とリアルタイムにコミュニケーションが取りやすいため、親しみやすく身近な情報源として、近年は若者にも親しまれています」と話す岡部氏。
25年9月には、ニッポン放送、TBSラジオ、文化放送、TOKYO FM、J-WAVEの民放ラジオ在京5社が、大規模災害時に報道協力すると報じられた。
全国各都市でも同様の動きが進められている。今後もラジオは、とくに災害や有事に役立つ社会インフラとして、私たちの暮らしを守る重要な役割を担い続けていくだろう。
【日本ラジオ博物館館長/岡部匡伸氏】
1964年、東京都出身。86年アキュフェーズ株式会社に入社。2007年にオンラインミュージアムとして日本ラジオ博物館を設立し館長に。12年に長野県松本市に博物館を開館
(MAMOR2025年12月号)
<文/古里学 写真提供/防衛省>
ー自衛隊ラジオー
※記事内容は上記掲載号の発売時点のものです



