戦場、被災地での作戦行動中、または訓練中に取るために配給される食糧のことを「戦闘糧食」と呼びます。英語では、combat rationといい、日本では略してレーション、また、最近は“ミリメシ”と呼ばれることが多いようです。
戦争では物資を効率よく戦場に運び、補給するという「兵たん」の差が勝敗を決するといわれる。なかでも、課題とされたのが、兵士の食の調達。戦争の歴史は糧食の進化の歴史ともいえるだろう。最初の近代政治家といわれるナポレオンの時代まで遡り、戦争における糧食の歴史を探ってみたい。
19世紀に発明された缶詰。各国軍が糧食として採用
戦闘糧食開発の祖といわれるのは、ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)だ。「軍隊は胃袋で行進する」という言葉を残しているように、ナポレオンは早くから軍隊における食糧の調達問題に着目。常温で長期保存が可能な糧食の開発を、民間に向けて懸賞金付きで公募した。その結果、フランスの料理人、ニコラ・アペール(1749〜1841)が開発した、食材を加熱殺菌処理した瓶詰を採用。しかし、ガラス瓶は重いうえに割れやすいため、輸送に適したものではなかった。
そんななか、1810年、イギリスのピーター・デュランド(1766〜1822)が缶詰の原型となる製造法を発明。この特許をもとにした世界初の缶詰工場がイギリスで設立され、13年からイギリスの陸・海軍に缶詰糧食の納入を開始した。
その後、缶詰の製法はアメリカにも伝わり、58年には同国で缶切りが発明。それまではのみと金づちなどで開封していた缶詰は、使い勝手が良くなったこともあり、61〜65年の南北戦争ではレーションとして利用されることになった。
戦国時代の武将を支えた「兵糧丸」
翻って日本の戦闘糧食の歴史を見てみると、720年に完成したといわれる『日本書紀』に、すでに兵士の携行食「干し飯」についての記述がある。これは、あらかじめ蒸した米を天日で乾燥させておき、必要に応じて湯や水で戻して食べる保存食だ。戦国時代にはこの干し飯やにぎり飯、焼きみそなどを、現在の歩兵にあたる足軽が「打飼」(うちがい)と呼ばれる袋に入れて携行した。
これら当時の戦闘糧食「兵糧」のなかでもスーパーフードといえるのが「兵糧丸」(ひょうろうがん)。兵糧丸は各地方の家ごとに秘伝のレシピがあり、例えば、小麦粉やカツオ節、ゴマなどを水と混ぜて団子状にして蒸し、きな粉をまぶすなどしてつくられた。これ1つで炭水化物やビタミンが補える高カロリーな携行食だったので、兵糧丸については旧日本陸軍も研究したといわれている。
日本の戦国時代に食べられていた戦闘糧食
戦国時代の足軽は、合戦に出るときは各自が3日分の糧食を持参したといわれる。その一例を紹介しよう。
干し飯
兵糧の基本、干し飯。軽くて長期保存に耐え、そのままでも食べられるので、古来より江戸時代まで携行食や保存食として用いられた。
焼きみそ
焼きみそは、みそを広げて日に当てて乾燥させたもの。保存がきくようになり、タンパク質を多く含む大豆を手軽に持ち運ぶことができた。
兵糧丸
高カロリーな携行食、兵糧丸。「1個食べれば、1日何も食べなくても大丈夫」といわれ、非常食として重宝された。
イモの茎縄
サトイモの茎で縄を作りみそ汁で煮しめて乾燥させたもの。体に巻きつけて持ち運び、必要な長さを切ってお湯に入れる。
缶詰が日本のミリメシの主役に
時代が下って近代になると、日本でも保存食として缶詰が製造されるようになる。1871年、旧制長崎英語学校の前身となる広運館の司長、松田雅典(1832〜95)が、当時のフランス領事から缶詰製造技術を習得した末、「イワシの油漬け缶詰」を完成。そして77年、北海道開拓使石狩缶詰所の創業を皮切りに、缶詰工場が日本各地に建設されるようになった。
82年、旧日本海軍でも牛肉の缶詰が戦闘糧食となる。日清戦争では、旧陸軍が副食として牛肉の大和煮の缶詰を、旧海軍が牛肉の佃煮の缶詰を正式に採用。また、旧海軍ではローストビーフやコンドビーフ(コンビーフ)、野菜の缶詰も糧食とされた。さらに 日ロ戦争時、旧海軍では軍艦内での戦闘糧食として、乾パンやコンビーフ、砂糖、水などが備蓄されている。
レーションの近代化はアメリカがリード
レーションの近代化をリードしたのはアメリカだ。第1次世界大戦(1914〜18)のころ、現在のように兵士1人前1食分にパッケージされたレーションの原型を、アメリカ軍が開発。「リザーブレーション」と呼ばれたその糧食は、コンビーフなどの肉の缶詰と乾パンの缶詰、コーヒー豆、砂糖、食塩で構成されていた。
1936年からは、これを基にした「Cレーション(フィールドレーション・タイプC)」の開発をアメリカ軍がスタート。肉の缶詰とパン・ビスケットの缶詰、飲料、キャンディーなどで構成されたCレーションは、41年から大量生産され、第2次世界大戦(1939〜45)に参戦したアメリカ軍兵士の胃袋を満たした。
第2次大戦の終了後、冷戦時代の50年代になると、アメリカ陸軍が新たなレーションの開発をはじめる。その結果、重くてかさばり、食後の処理などに問題があった缶詰に替わるパッケージとして、レトルトパウチ包装タイプのレーションが誕生した。
69年にはこれが月面着陸を果たしたアポロ11号の宇宙食「Lunar−pack(牛肉、ポトフなど5品目)」として採用され話題となった。これにより、レトルトパウチに食材を入れて殺菌処理する製法に世界の食品メーカーが注目するなか、同年に日本の大塚食品工業(現・大塚食品)が世界初となる市販のレトルト食品「ボンカレー」を全国発売した。その後、次々と参入する企業が増え、近年では100社を超える企業で500種以上のレトルト食品が生産されている。
75年にはアメリカ国防省がCレーションに替わる糧食の開発を本格的に開始。81年、「MRE」(Meal, Ready-to-Eat=すぐに食べられる食糧)が完成し、製造されることになった。
MREは改良を重ね、91年の湾岸戦争からは、主食のレトルトパックを水を加えるだけで温められる「FRH」(フレームレス・レーション・ヒーター)を添付。レトルトとフリーズドライという食品加工技術、ヒーターという新技術を生かし、保存性と機能性、携行性に優れたMREが、コンバット・レーションの現在形となっている。
<文/魚本拓 出典/日本製缶協会ホームページ、日本缶詰びん詰レトルト食品協会ホームページ>
(MAMOR2022年11月号)