•  指揮官を補佐する参謀。その基本的な役割や重要性は古今を通じて共通しており、戦国武将たちにとっても優秀な参謀を擁せるか否かは、時に死活問題になった。どのような武将が参謀として名をはせたのか、また、そこから現代の幕僚が学ぶことはあるだろうか。歴史研究家・小和田泰経氏に話を伺った。

    4人の武将に見る、戦国時代の参謀の働き

    太田道灌

    「参謀的な役割は古代にもあったと考えられますが、戦国時代の初めごろまでの戦は多くても数百人ほどで戦ったとされています。しかし時代が下るにつれて戦闘の規模が数万人単位になると、作戦遂行だけではなく複雑な戦陣作法(武士の習慣に則った戦の作法)なども統括する補佐官が必要となりました。

     また、当時は軍事行動の吉凶判断に占いを用いることもあり、そうした職能者を軍師(軍配師)と呼んでいました」と小和田氏は語る。

     現在でも参謀(幕僚)の重要な職掌として、組織の事務的な仕事である「実務」、戦闘の目的や手段などを定める「作戦」、戦場や敵の兵力といった戦いの状況判断の材料を収集する「情報」、武器や食料の補給といった後方支援を担う「兵たん」などが挙げられるだろう。

     戦国時代には、これらの職掌に加えて、大名(指揮官)1人ではカバーしきれない多くの戦の決まりごと(武勲に応じた領地の配分や働きの評価など)に精通した人物が必要とされたという。

     当時、参謀や幕僚といった明確なポストがあったわけではないが、ではそうした役割を果たした武将にはどのような人物がいたのだろうか。小和田氏によると、代表的な例として、太田道灌、立花道雪、黒田官兵衛、直江兼続らが挙げられるという。

    立花道雪

    「太田道灌は現在の東京都とその周辺を含む武蔵国の守護、扇谷上杉家に家宰として仕えた武将です。『長尾景春の乱』(1476〜80年)の鎮圧など巧みな兵法で関東の複雑なパワーバランスを制して主家を盛り立てました。

     歌道や易学にも精通した教養人で家中から深い信望を集めましたが、逆にその能力を危険視されざん言(他人をおとしいれるため、ありもしないことを目上の人に告げ、悪く言うこと)によって主君である上杉定正に暗殺されてしまいました。

     立花道雪は豊後国(現在の大分県あたり)の大名・大友氏に仕えた人物で、若いころに落雷に打たれながら一命を取り留めたことから、“雷神を斬った”といわれるエピソードでも知られています。九州島の覇権を争った大友氏の重鎮として前線に立ち続け、『多々良浜の戦い』(1569年)では火薬と弾を1つにまとめた早合という弾薬包を考案し、射撃戦術の進化をもたらしたとされています。

     道雪は甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄が面会を願ったと伝わるほどの武略と忠義が知られ、時に身をていして主君にかん言(目上の人の欠点や過失を指摘して忠告すること。いさめること)することも辞さなかった人物です」

     ただし小和田氏は、扇谷上杉氏や大友氏のその後の衰退から、道灌や道雪といった優れた参謀を、主君が十分に扱えたとはいいがたいとも指摘する。

    黒田官兵衛

    「黒田官兵衛は軍師(参謀)ポストの武将としてその名を想起する方も多いのではないでしょうか。竹中半兵衛とともに秀吉の懐刀として手腕を発揮し、『如水』の法名でもよく知られる人物です。築城・兵法の達人であり、姫路城や大坂城など重要城郭の建設に携わりました。

     秀吉が駆使した水攻めや兵糧攻めなどの攻城戦術には、官兵衛の建策によるものも多いといいます。秀吉の覇業を補佐した名参謀といえる官兵衛は“天下を狙える”とまで評された人物ですが、『関ケ原の戦い』(1600年)では東軍に与して家名を存続させました。

     直江兼続は、軍事面のみならず、内政にも優れた手腕を発揮した参謀でした。上杉景勝(1556〜1623年)の執政として越後国(現在の新潟県)、のちに米沢(山形県)でも領国経営の陣頭指揮を執り続けました。

     関ケ原の戦いでの敗北により上杉氏が米沢に減転封(現在より低い生産高の国へと配置換えされること)された際、家臣団のリストラを行わず勧農・治水・倹約を推進して藩政を軌道に乗せるため尽力したことが知られています」

    直江兼続

     先述した太田道灌のように、能力とカリスマ性を持ち合わせたがために結果として、脅威を感じた主君に滅ぼされたという例がある一方では、立花道雪のように、忠義心から主君をいさめる役を果たした者もおり、黒田官兵衛・直江兼続ら一貫して主君のサポートに徹した武将もいた。

     小和田氏によると、「歴史上の参謀には実績が評価される人物と、人柄が慕われる人物とがいますが能力と人望のバランス、そして指揮官との相性も大事な能力。どんなに優秀でも人望がなければ兵は付いてきませんし、時に主君(指揮官)をいさめて大局を見誤らせないように導く度量も必要でした。いずれも参謀として“黒子に徹する”ことが重要といえます」。

    【太田道灌】
    (1432~86年)室町時代後期の武将。名将の誉れ高く、治水や町づくりで江戸繁栄の礎を築いた。道灌山や道灌堀など、都内各所に由来の地名や伝承がある

    【立花道雪】
    (1513~85年)戦国~安土桃山時代の武将。文武に優れた将として敵勢力からの評価も高かった。早合という弾薬包を用い、装填時間を速めた巧みな鉄炮部隊運用でも知られる

    【黒田官兵衛】
    (1546~1604年)戦国~江戸時代初期の武将。官兵衛は通称で本名は孝高。豊臣秀吉の側近として活躍。戦術だけでなく築城・兵法に長け、姫路城や大坂城の建築に携わった

    【直江兼続】
    (1560~1620年)戦国~江戸時代初期の武将。関ケ原敗戦後は米沢の領国経営でも陣頭指揮を執った。戦のみならず交渉も巧みで、内政にも手腕を発揮し領民から慕われた

    石田三成は「兵たん」に秀でた幕僚だった?

    石田三成

     参謀に求められる資質や任務には各時代を通じて一定の普遍性があるが、戦国時代当時には「兵たん」が軽視される傾向が見受けられるという。

    「やり働き(戦場に赴き戦闘を行うこと)による武功を第一の誉れとする武士の世にあって、『小荷駄』と呼ばれた補給部隊やその任務を行う人物の立場は一段低く見られていたとされています。

     しかし、補給が軍事のみならず、あらゆる行動において根幹を成す重要事項であることは論をまちません。これを体現した武将の代表格として、豊臣政権の奉行として知られる『石田三成』が挙げられるでしょう」

     三成は幼少より秀吉に仕えた武将の1人で、特に事務能力に秀でた官僚タイプのキャリアで知られる人物。兵たん確保などの後方支援や太閤検地に代表される正確な測量など、作戦行動を裏から支え領国経営をより円滑に進めるために重用されたという。

    「その反面、武功派と呼ばれる戦場での武功を重んじる古参武将たちの中には、三成の立身を快く思わない者も多かったようです。しかし軍事行動や作戦の規模が大きくなればなるほど、補給部隊の存在は要となってきます。秀吉はそうした任務の重要性をよく理解していたからこそ、三成を重用したのでしょうね」

    【石田三成】
    (1560~1600年)安土桃山時代の武将。後方支援や領地経営などの実務に能力を発揮した。関ケ原の戦いでは西軍の代表格として、最後まで豊臣に殉じたと知られている

    平和を見据えたときこそ実務に長けた参謀が必要

     こうした、戦いに身を置く者による、兵たん軽視の風潮は戦国時代にも存在したようだ。

    「秀吉が補給などの兵たんを重視する政治的手腕・行政的手腕に優れた参謀としての人材を優遇したのには理由がある」と小和田氏は語る。すでに世は戦国の終えんを迎えようとしており、平和な時代の到来を見据えたときにこそ戦闘だけではなく実務に長けた参謀が必要だったからだ。

     いわば戦を制するための参謀から、平和を維持するための参謀への転換が希求されたといってもいいだろう。

    「武将たちも戦そのものが目的だったわけではありません。それぞれに戦国の終わりに向けて戦い、最終的な平和を求めていたといえるでしょう。武、という文字は戈を止めるという意味。つまり争いを止める力のことで、これは古今東西を問わず普遍的な願いでした。そうした点においても、現在の自衛隊にとって歴史に学ぶところは大きいのではないでしょうか」

     戦国の参謀たちの歴史をひも解くとき、現代に生きるわれわれも忘れてはならない多くの示唆があるようだ。

    【小和田泰経】
    1972年生まれ。東京都出身。日本中世史を専攻し、テレビ出演やドラマ制作の協力、執筆などを行う。著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社)など。現在は静岡英和学院大学で講師を務める

    <文/帯刀コロク 写真/荒井健>

    (MAMOR2022年3月号)

    勝つために幕僚がいる!

    This article is a sponsored article by
    ''.