• 画像: 岩手県大槌町で焼け野原となった被災地を捜索する隊員(写真:時事)

    岩手県大槌町で焼け野原となった被災地を捜索する隊員(写真:時事)

     2011年3月11日。東日本を襲った最大震度7、マグニチュード9.0という観測史上最大級となる東北地方太平洋沖地震は、最大遡上高40.1メートルの津波と、それによる原子力発電所事故を引き起こし、東日本大震災と命名された未曾有の大災害となった。

     当時、国家の一大事に自衛隊がどのように対応したのかをあらためて振り返り、あれからの10年で、自衛隊の何が変わり、どう進化し、そして、今後、災害にどのように対応するのか、できるのか、を検証してみたい。

    東日本大震災の概要
    発生:2011年3月11日 14時46分
    震源:宮城県牡鹿半島東南東130キロメートル付近
    震源の深さ:約24キロメートル
    規模:マグニチュード9.0
    最大震度:震度7(宮城県栗原市)
    被害状況:人的被害・死者1万9729人、行方不明者・2559人
    内閣府【緊急災害対策本部とりまとめ報「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について」(2020年3月10日8:00現在)】より抜粋

    迅速果断だった自衛隊。最大10万人が活動

    画像1: 迅速果断だった自衛隊。最大10万人が活動

     2011年3月11日14時46分55秒、大地震発生。自衛隊の動きは迅速を極めた。発生からわずか4分後には防衛省内に災害対策本部が設置され、訓練飛行中だったP−3C哨戒機に状況確認の指示を出した。14時57分に海上自衛隊大湊基地からUH−60J救難ヘリコプターが、15時1分に陸上自衛隊霞目駐屯地からUH−1J多用途ヘリコプターが発進。15時25分には海自横須賀基地から13隻の艦艇が宮城県沖に向かって出港した。北澤俊美防衛大臣(当時)は18時に大規模震災災害派遣命令を、19時30分には原子力災害派遣命令を出し、自衛隊の大規模な災害派遣が決定した。

    画像2: 迅速果断だった自衛隊。最大10万人が活動

     さらに3月14日に陸・海・空3自衛隊による自衛隊初となる「統合任務部隊」が編成され、全国の部隊が救援に向かったのである。この日から8月31日の終結命令まで、最大約10万6000人の隊員、約50隻の艦艇、約500機の航空機が被災地に向かった。そして半年近くの活動で約2万人の人命救助、約1万柱のご遺体収容、約1万4000トンの物資輸送、約3万トンの給水支援など、大きな実績を挙げることとなる。

    困難を乗り越えて、国民からの信頼を得る

    画像: 宮城県気仙沼市で海上自衛隊のヘリコプターによって救助された被災者(写真:EPA=時事)

    宮城県気仙沼市で海上自衛隊のヘリコプターによって救助された被災者(写真:EPA=時事)

     この自衛隊の素早い動きの背景には、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災で、県知事からの派遣要請が遅れたため、自衛隊の初動が遅れたという苦い教訓があった。また2008年の東北方面総監部主催の大規模災害対策訓練や、統合幕僚監部が作成した首都直下地震に対する災害派遣のシナリオが生かされた。

    画像: 福島第1原子力発電所の半径10キロメートル圏内で捜索をする隊員(写真:朝雲新聞/時事)

    福島第1原子力発電所の半径10キロメートル圏内で捜索をする隊員(写真:朝雲新聞/時事)

     とはいえ実際の震災では自衛隊は5つの初めてに直面した。それは、①現役自衛官の約半数にも上る大規模派遣、②統合任務部隊の運用、③在日アメリカ軍との共同支援活動、④予備自衛官即応予備自衛官の招集、⑤原子力災害派遣、である。特に原子力災害派遣に関しては、自力で冷却できなくなった原子炉への放水など、命をかけての活動となった。

    画像: 福島県の避難所で給水支援を行う隊員と子どもたち(写真:朝雲新聞/時事)

    福島県の避難所で給水支援を行う隊員と子どもたち(写真:朝雲新聞/時事)

     こうした困難な状況下にもかかわらず、自衛官の献身的な活動は、被災者をはじめ多くの国民の心を揺さぶった。内閣府が2012年1月に行った世論調査では、国民の約92パーセントが自衛隊に好印象を持っていると答えている。史上最大の作戦は、自衛隊への信頼を大いに高める活動となった。

    (MAMOR2021年5月号)

    <文/古里学 写真提供/防衛省>

    変化と進化を続ける自衛隊の災害派遣活動

    This article is a sponsored article by
    ''.